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楚(そ)・桓楚(かんそ)(晋(しん))第1代反乱・自称政権

桓玄(かんげん)

在位 404年1月1日〜404年6月19日(170日)

姓桓(かん)諱玄(げん)字敬道(けいどう)幼名霊宝(れいほう)

桓玄の人物データ

生年
不詳
在位
  • 404年1月1日〜404年6月19日
在位 170日長さは365名中324位
没年
404年6月19日36歳(数え年)267名中長寿順151位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
受禅(易姓)
先代
  • 安帝東晋桓玄と安帝に血縁はない
次代
—
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
晋書 列伝第六十九(桓玄伝)/晋書 帝紀(安帝紀)
即位経路
晋書 列伝第六十九(桓玄伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

桓玄は東晋の大司馬桓温の子で、晋の安帝から禅位を受ける形で帝位を簒い、国号を楚とした。簒位からまもなく劉裕らの義兵に敗れて西へ逃れ、蜀へ向かう途中で斬られた。

即位まで

字は敬道で、桓温の庶子だったが、桓温の臨終に後嗣とされて南郡公の爵を継いだ。402年、司馬元顕が詔と称して桓玄を討とうとすると、桓玄は逆に東下して建康に入り、司馬道子を安成郡へ移し、司馬元顕を市で殺して大亨と改元した。403年には詔を矯めて自らを相国・楚王とし、九錫を加えさせた。さらに王謐に皇帝の璽を奉じさせて自らに禅位させ、安帝を永安宮に出して、晋の神主を琅邪廟に移した。百官が姑孰まで来て即位を勧め、桓玄は城南に郊を立てて壇に登り、位を簒った。晋書の桓玄伝はこの登壇に日付を記さず、安帝紀によれば西暦では404年の初めにあたる。

治世と最期

即位すると大赦して永始と改元したが、はじめは建始としたところ、趙王倫の偽号と同じだと指摘されて改めたという。安帝を平固王として尋陽に移し、父の桓温を宣武皇帝と追尊した。年が改まった404年には、妻の劉氏を皇后に立てた。桓玄伝によれば、簒位後の桓玄は驕奢で遊猟に耽り、百姓の多くが乱を思うようになって、劉裕・劉毅・何無忌らが晋の復興を謀った。404年、劉裕らは京口と広陵で挙兵して桓脩と桓弘を斬り、蒋山で火を放って攻めると桓謙らの軍は潰え、桓玄は石頭から船で逃れた。峥嶸洲で劉毅らに大敗したのち、毛脩之に誘われて蜀へ向かう途中、毛璩の従孫の祐之らの迎撃を受け、益州督護の馮遷に斬られた。斬られた場所を安帝紀は貊盤洲とし、桓玄伝や資治通鑑、宋書などは枚回洲とする。桓謙は桓玄のために喪を挙げて武悼皇帝と諡し、劉毅らは桓玄の首を大桁に梟した。

在位中の出来事(6件)

立后404年
親征404年劉毅・劉道規(劉裕方の義軍)
被反乱404年劉裕・劉毅・何無忌の挙兵
改元404年1月1日元号を「永始」とする
大赦404年1月1日
遷都404年5月建康 → 江陵

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