楚・桓楚(晋)第1代反乱・自称政権
桓玄
在位 404年1月1日〜404年6月19日(170日)
桓玄の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晋書 列伝第六十九(桓玄伝)/晋書 帝紀(安帝紀)
- 即位経路
- 晋書 列伝第六十九(桓玄伝)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
桓玄は東晋の大司馬桓温の子で、晋の安帝から禅位を受ける形で帝位を簒い、国号を楚とした。簒位からまもなく劉裕らの義兵に敗れて西へ逃れ、蜀へ向かう途中で斬られた。
即位まで
字は敬道で、桓温の庶子だったが、桓温の臨終に後嗣とされて南郡公の爵を継いだ。402年、司馬元顕が詔と称して桓玄を討とうとすると、桓玄は逆に東下して建康に入り、司馬道子を安成郡へ移し、司馬元顕を市で殺して大亨と改元した。403年には詔を矯めて自らを相国・楚王とし、九錫を加えさせた。さらに王謐に皇帝の璽を奉じさせて自らに禅位させ、安帝を永安宮に出して、晋の神主を琅邪廟に移した。百官が姑孰まで来て即位を勧め、桓玄は城南に郊を立てて壇に登り、位を簒った。晋書の桓玄伝はこの登壇に日付を記さず、安帝紀によれば西暦では404年の初めにあたる。
治世と最期
即位すると大赦して永始と改元したが、はじめは建始としたところ、趙王倫の偽号と同じだと指摘されて改めたという。安帝を平固王として尋陽に移し、父の桓温を宣武皇帝と追尊した。年が改まった404年には、妻の劉氏を皇后に立てた。桓玄伝によれば、簒位後の桓玄は驕奢で遊猟に耽り、百姓の多くが乱を思うようになって、劉裕・劉毅・何無忌らが晋の復興を謀った。404年、劉裕らは京口と広陵で挙兵して桓脩と桓弘を斬り、蒋山で火を放って攻めると桓謙らの軍は潰え、桓玄は石頭から船で逃れた。峥嶸洲で劉毅らに大敗したのち、毛脩之に誘われて蜀へ向かう途中、毛璩の従孫の祐之らの迎撃を受け、益州督護の馮遷に斬られた。斬られた場所を安帝紀は貊盤洲とし、桓玄伝や資治通鑑、宋書などは枚回洲とする。桓謙は桓玄のために喪を挙げて武悼皇帝と諡し、劉毅らは桓玄の首を大桁に梟した。