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安帝の肖像

東晋(とうしん)第10代分裂期の王朝

安帝(あんてい)司馬(しば)徳宗(とくそう)

在位 396年11月7日〜419年1月28日(22年87日)

姓司馬(しば)諱徳宗(とくそう)

安帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 396年11月7日〜419年1月28日
在位 22年87日長さは365名中50位
没年
419年1月28日37歳(数え年)267名中長寿順149位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
次代
  • 桓玄楚・桓楚桓玄と安帝に血縁はない
  • 恭帝東晋恭帝は安帝の弟

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 帝紀第十 安帝
即位経路
晉書 帝紀第十 安帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

言葉も話せず寒暑も弁えられなかったと記される東晋(とうしん)の皇帝で、桓玄(かんげん)に位を奪われて劉裕(りゅうゆう)に戻されたのち、劉裕(りゅうゆう)の意を受けた者に殺された。

即位まで

孝武帝(こうぶてい)の長子で、387年に皇太子となった。孝武帝(こうぶてい)は寵愛(ちょうあい)する張貴人(きじん)に戯れを言って恨まれ、酔った夕べに急死したが、司馬(しば)道子(どうし)らは罪を問わなかった。396年、その翌日に太子が即位し、会稽(かいけい)王司馬(しば)道子(どうし)が太傅(たいふ)として政を執った。晋書(しんじょ)は、帝が幼い頃から言葉を話せず、立ち居振る舞いのすべてが自分の意思から出なかったと記し、資治通鑑(しじつがん)は同母弟の徳文(とくぶん)が常にそばで世話をしたと付け加える。

治世と最期

397年には王恭らが挙兵し、399年には孫恩が会稽(かいけい)を陥れた。402年、桓玄(かんげん)が官軍を破って司馬(しば)元顕(げんけん)らを殺し、自ら丞相(じょうしょう)となった。404年の初めに桓玄(かんげん)が帝位を奪い、安帝(あんてい)は平固王(へいこおう)とされて尋陽(じんよう)へ移された。晋書(しんじょ)は、このとき命を全うできたのはこの知能の状態のためだったと記す。同じ年に劉裕(りゅうゆう)らが兵を挙げ、敗走した桓玄(かんげん)が斬られると、安帝(あんてい)は江陵(こうりょう)で復位したが、まもなく桓(かん)振に江陵(こうりょう)を取られて再び賊の陣中に置かれた。405年に建康(けんこう)へ戻った。419年の初め、東堂(とうどう)で没した。晋書(しんじょ)は、昌明(しょうめい)の後に二帝ありという讖(しん)があり、禅譲(ぜんじょう)を図る劉裕(りゅうゆう)が王韶之(しょうし)にひそかに絞殺させて恭帝(きょうてい)を立てたと記す。昌明(しょうめい)は孝武帝(こうぶてい)の字である。資治通鑑(しじつがん)は徳文(とくぶん)が病で離れたすきに東堂(とうどう)で絞めたとし、宋書(そうじょ)と南史(なんし)の王韶之(しょうし)伝は毒を盛ったとする。

在位中の出来事(30件)

被反乱397年王恭・庾楷の第一次挙兵
被反乱397年王廞の乱
被反乱398年王恭ら五州刺史の連合挙兵(第二次)
被反乱398年杜炯の乱
被反乱398年韋礼の反乱(襄陽流民)
被反乱399年〜411年孫恩・盧循の乱
被反乱402年〜405年桓玄の乱・簒奪と桓振残党の乱
被反乱405年〜413年譙縦の乱(譙蜀の独立)
被反乱415年司馬休之・魯宗之の乱
被反乱419年1月劉裕による安帝弑逆
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改元日付不詳元号を「隆安」とする
改元日付不詳元号を「元興」とする
改元日付不詳元号を「義熙」とする
大赦日付不詳太元二十一年九月辛酉、太子即皇帝位、大赦(即位に伴う大赦)
大赦日付不詳隆安元年四月戊子、大赦
大赦日付不詳隆安二年十月丙子、大赦
大赦日付不詳隆安四年正月乙亥、大赦
大赦日付不詳隆安四年七月丁卯、大赦
大赦日付不詳元興元年正月庚午朔、大赦(改元も同時)
大赦日付不詳元興三年五月甲申、大赦(五月壬午に桓玄誅殺・帝『反正』の直後)
大赦日付不詳義熙元年正月戊戌、大赦(改元も同時、桓振からの再度の反正後)
大赦日付不詳義熙三年二月己丑、大赦、除酒禁
大赦日付不詳義熙五年正月辛卯、大赦
大赦日付不詳義熙六年五月己未、大赦
大赦日付不詳義熙八年九月己丑、劉裕矯詔により大赦天下(劉毅を除く)
大赦日付不詳義熙十一年正月庚午、大赦
大赦日付不詳義熙十一年九月己亥、大赦
大赦日付不詳義熙十二年八月丙午、大赦
大赦日付不詳義熙十四年正月辛巳、大赦
立后日付不詳隆安元年三月戊午、立皇后王氏

東晋の歴代皇帝

11名の一覧

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