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東晋(とうしん)第5代分裂期の王朝

穆帝(ぼくてい)司馬(しば)聃(たん)

在位 344年11月18日〜361年7月10日(16年238日)

姓司馬(しば)諱聃(たん)字彭子(ほうし)廟号孝宗(こうそう)

穆帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 344年11月18日〜361年7月10日
在位 16年238日2歳で即位(数え年)・長さは365名中72位
没年
361年7月10日19歳(数え年)267名中長寿順238位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 康帝東晋穆帝は康帝の子
次代
  • 哀帝東晋哀帝は穆帝の従兄弟

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 帝紀第八 孝宗穆帝・哀帝
即位経路
晉書 帝紀第八 孝宗穆帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

幼くして即位して康帝(こうてい)の皇后だった褚(ちょ)太后(たいこう)が政を執り、桓温(かんおん)が蜀(しょく)を平らげて洛陽(らくよう)を取り戻した時代の東晋(とうしん)の皇帝である。

即位まで

康帝(こうてい)の子で、344年に皇太子に立てられた二日後に康帝(こうてい)が没し、その翌日に即位した。康帝(こうてい)の皇后だった褚(ちょ)氏が皇太后となって臨朝(りんちょう)し、翌年には太極殿(たいきょくでん)に白紗(はくさ)の帷(とばり)を設け、幼い帝を抱いて臨んだ。

治世と最期

346年の末に桓温(かんおん)が表を奉って蜀(しょく)へ発ち、347年に成都(せいと)を落として李勢(りせい)を降した。桓温(かんおん)伝によれば、朝廷は蜀(しょく)が遠く険しいのを憂えていたが、笮橋(さくきょう)の戦いで鼓吏(こり)が誤って進撃の鼓を鳴らしたことで李勢(りせい)の軍が崩れた。349年には褚(ちょ)裒(ほう)の北伐(ほくばつ)が代陂(だいひ)で敗れた。352年に冉(ぜん)閔(びん)の子が鄴(ぎょう)で降り、伝国璽(でんこくじ)が送られてきて百官が祝った。353年には殷(いん)浩(こう)の北伐(ほくばつ)で前鋒(ぜんぽう)の姚(よう)襄(じょう)が背き、殷(いん)浩(こう)は翌年庶人(しょじん)に落とされた。354年に桓温(かんおん)は関中(かんちゅう)へ出て藍田(らんでん)で勝ったが、兵糧が尽きて引き返した。356年、桓温(かんおん)は伊水(いすい)で姚(よう)襄(じょう)を大破して洛陽(らくよう)を守らせ、荒らされた先帝の陵を修めた。357年に元服して自ら政務を執り、太后は崇徳(すうとく)宮に退いた。同じ年に何氏(かし)を皇后に立てた。358年からは前燕(ぜんえん)の慕容儁(ぼようしゅん)に河北(かほく)の地を奪われ、北伐(ほくばつ)もたびたび敗れた。361年に顕陽殿(けんようでん)で没した。穆帝(ぼくてい)紀(き)は崩御(ほうぎょ)だけを記すが、哀帝(あいてい)紀(き)が引く皇太后の令は、にわかに病んで救えなかったと述べる。跡継ぎがなく、皇太后の令で琅邪王(ろうやおう)丕(ひ)が迎えられた。

在位中の出来事(18件)

大赦344年11月18日建元二年九月己亥、康帝崩御を受け太子(穆帝)即位。
改元345年元号を「永和」とする
被反乱345年庾翼部将の反乱
大赦346年永和二年春正月丙寅、大赦。
大赦347年永和三年六月辛酉、大赦。
被反乱347年〜349年蜀地(益州)の反乱
被反乱348年豫章・黄韬の反乱(自称孝神皇帝)
大赦349年永和五年春正月辛巳朔、大赦。
被反乱352年許昌・張遇の反乱
大赦353年永和九年春正月乙卯朔、大赦。
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被反乱353年〜356年姚襄の反乱
被反乱354年〜356年周成(冉閔降将)の反乱
被反乱354年江西乞活・郭敞の反乱
改元357年元号を「升平」とする
大赦357年升平元年春正月壬戌朔、帝加元服に伴う大赦・改元。
大赦357年升平元年八月丁未、立皇后何氏に伴う大赦。
立后357年升平元年八月丁未、皇后何氏を立てる。
大赦361年3月升平五年春正月戊戌、大赦。

東晋の歴代皇帝

11名の一覧

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