
蜀漢(三国)第2代分裂期の王朝
懐帝劉禅
在位 223年〜263年(40年163日)
懐帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 三國志 蜀書三 後主傳
- 即位経路
- 三国志・蜀書・後主伝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
劉禅は劉備の子で、蜀漢の位を継ぎ、のちに魏の鄧艾に降った。即位の初めは諸葛亮が政事を大小となく決し、治世の後半には宦官の黄皓が権勢を振るった。
即位まで
字は公嗣で、219年に父の劉備が漢中王となると王太子に立てられた。裴注所引の魏略は、劉禅が幼いころ戦乱で劉備とはぐれ、漢中で売られて扶風の劉括の養子になったと記すが、裴松之は他の伝と合わないとして退けている。劉備は死に臨んで諸葛亮に後事を託し、嗣子が輔けるに足りなければ君が自ら取れと告げた。223年に劉備が永安宮で没すると、劉禅は成都で位を継ぎ、劉備の皇后を皇太后と尊んで大赦・改元した。
治世と最期
諸葛亮は武郷侯に封ぜられて府を開き、益州牧を兼ねて政事を取り仕切った。234年に諸葛亮が渭水のほとりで没し、魏延と楊儀の争いを経て、蒋琬が尚書令として国事を総べた。劉禅は成長すると宦官の黄皓を寵愛したが、董允が存命のうちは黄皓は非を為せなかった。董允の死後、黄皓は侍中の陳祗と結んで政事に預かり、後主伝は258年に黄皓が初めて政を専らにしたと記す。資治通鑑によれば、262年に姜維が鍾会の出兵に備えるよう上表したが、黄皓が巫鬼を信じて敵は来ないと言い、取り上げさせなかった。263年の冬、鄧艾が綿竹で諸葛瞻を破ると、劉禅は譙周の策を用い、棺を車に載せて自らを縛り、鄧艾の軍門に詣でて降った。翌264年に一家を挙げて洛陽へ移され、安楽県公に封ぜられた。司馬昭に蜀を思うかと問われ、ここは楽しく蜀を思わないと答えたという話は、陳寿の本文には無く、裴注所引の漢晋春秋に見え、資治通鑑も載せている。271年に洛陽で没したが、後主伝は死因を記さない。裴注所引の蜀記は諡を思公とし、晋書によれば、のちの304年に漢王を称した劉淵が劉禅を孝懐皇帝と追尊した。
在位中の出来事(24件)
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蜀漢の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代昭烈帝221–223年病死
- 第2代懐帝223–263年不詳