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懐帝の肖像

蜀漢(しょくかん)(三国(さんごく))第2代分裂期の王朝

懐帝(かいてい)劉(りゅう)禅(ぜん)

在位 223年〜263年(40年163日)

姓劉(りゅう)諱禅(ぜん)字公嗣(こうし)

懐帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 223年〜263年
在位 40年163日17歳で即位(数え年)・長さは365名中13位
没年
271年65歳(数え年)267名中長寿順24位タイ
死因
不詳365名中33名
即位経路
世襲
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
三國志 蜀書三 後主傳
即位経路
三国志・蜀書・後主伝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

劉(りゅう)禅(ぜん)は劉備(りゅうび)の子で、蜀漢(しょくかん)の位を継ぎ、のちに魏(ぎ)の鄧艾(とうがい)に降った。即位の初めは諸葛亮(しょかつりょう)が政事を大小となく決し、治世の後半には宦官(かんがん)の黄皓(こう)が権勢を振るった。

即位まで

字は公嗣(こうし)で、219年に父の劉備(りゅうび)が漢中王(かんちゅうおう)となると王太子に立てられた。裴注(はいちゅう)所引の魏略(ぎりゃく)は、劉(りゅう)禅(ぜん)が幼いころ戦乱で劉備(りゅうび)とはぐれ、漢中(かんちゅう)で売られて扶風(ふふう)の劉(りゅう)括の養子になったと記すが、裴松之(はいしょうし)は他の伝と合わないとして退けている。劉備(りゅうび)は死に臨んで諸葛亮(しょかつりょう)に後事を託し、嗣子が輔(たす)けるに足りなければ君が自ら取れと告げた。223年に劉備(りゅうび)が永安宮(えいあんきゅう)で没すると、劉(りゅう)禅(ぜん)は成都(せいと)で位を継ぎ、劉備(りゅうび)の皇后を皇太后と尊んで大赦・改元(かいげん)した。

治世と最期

諸葛亮(しょかつりょう)は武郷侯(ぶきょうこう)に封ぜられて府を開き、益州牧(えきしゅうぼく)を兼ねて政事を取り仕切った。234年に諸葛亮(しょかつりょう)が渭水(いすい)のほとりで没し、魏(ぎ)延と楊(よう)儀の争いを経て、蒋(しょう)琬(えん)が尚書令(しょうしょれい)として国事を総べた。劉(りゅう)禅(ぜん)は成長すると宦官(かんがん)の黄皓(こう)を寵愛(ちょうあい)したが、董(とう)允(いん)が存命のうちは黄皓(こう)は非を為せなかった。董(とう)允(いん)の死後、黄皓(こう)は侍中(じちゅう)の陳祗(し)と結んで政事に預かり、後主(こうしゅ)伝は258年に黄皓(こう)が初めて政を専らにしたと記す。資治通鑑(しじつがん)によれば、262年に姜維(きょうい)が鍾会(しょうかい)の出兵に備えるよう上表(じょうひょう)したが、黄皓(こう)が巫鬼(ふき)を信じて敵は来ないと言い、取り上げさせなかった。263年の冬、鄧艾(とうがい)が綿竹(めんちく)で諸葛(しょかつ)瞻(せん)を破ると、劉(りゅう)禅(ぜん)は譙(しょう)周の策を用い、棺を車に載せて自らを縛り、鄧艾(とうがい)の軍門(ぐんもん)に詣でて降った。翌264年に一家を挙げて洛陽(らくよう)へ移され、安楽県公(あんらくけんこう)に封ぜられた。司馬昭(しばしょう)に蜀(しょく)を思うかと問われ、ここは楽しく蜀(しょく)を思わないと答えたという話は、陳寿(ちんじゅ)の本文には無く、裴注(はいちゅう)所引の漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)に見え、資治通鑑(しじつがん)も載せている。271年に洛陽(らくよう)で没したが、後主(こうしゅ)伝は死因を記さない。裴注(はいちゅう)所引の蜀記(しょくき)は諡(おくりな)を思公(しこう)とし、晋書(しんじょ)によれば、のちの304年に漢王を称した劉淵(りゅうえん)が劉(りゅう)禅(ぜん)を孝懐皇帝(こうかいこうてい)と追尊(ついそん)した。

在位中の出来事(24件)

立后223年
被反乱223年〜225年南中反乱(雍闿・朱褒・高定ら)
改元223年6月元号を「建興」とする
大赦223年6月即位に伴う大赦(章武三年五月=建興元年)。
被反乱233年南夷劉冑の反乱
大赦234年
被反乱234年魏延の乱
改元238年元号を「延熙」とする
大赦238年
立后238年
残り14件を表示
大赦243年
大赦246年
被反乱247年汶山平康夷の反乱
被反乱248年涪陵属国民夷の反乱
大赦249年
大赦251年
大赦254年
大赦256年
大赦257年
改元258年元号を「景耀」とする
大赦258年
大赦261年
改元263年元号を「炎興」とする
大赦263年

蜀漢の歴代皇帝

2名の一覧

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