
前漢第7代統一王朝
武帝劉徹
在位 前141年3月9日〜前87年3月29日(54年33日)
武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 漢書・武帝紀
- 即位経路
- 漢書・武帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
匈奴へ大軍を送り、晩年には巫蠱の事件で皇太子を失った前漢の皇帝である。漢書の賛は、即位すると百家を退けて六経を顕彰し、太学を興し、暦を改め、封禅を行ったとして、雄材大略と評する。
即位まで
景帝の子で、母は王美人である。4歳で膠東王、7歳で皇太子となり、母も皇后に立てられた。前141年に景帝が没すると即位した。漢書の臣瓚の注は、即位の年齢を本紀より1歳上に数えている。
治世と最期
前119年には衛青が漠北で単于を囲み、霍去病が狼居胥山で天を祀って帰還したが、両軍の死者は数万に及んだ。前91年、江充らが太子宮で蠱を掘り出すと、戻太子は皇后と謀って江充を斬り、兵を発して丞相の劉屈氂と長安で戦い、死者は数万人に上った。敗れた太子は逃れ、皇后は自殺した。本紀は太子が湖で自殺したとだけ書き、武五子伝は匿われていた家が見つかって首をくくったと書く。のちに巫蠱の多くが事実でないと分かると、武帝は江充の一族を滅ぼし、太子を悼んで思子宮を造った。漢書の西域伝によれば、武帝は輪台に屯田を置く案に対して過去を深く悔いる詔を下し、以後は兵を出さなかった。この詔は武帝紀には載っていない。霍光伝によれば、武帝は鉤弋夫人の子を跡継ぎにしようと考え、病が重くなると霍光らに幼い子を補佐するよう命じた。本紀は前87年、五柞宮で皇子の弗陵を皇太子に立て、その2日後に没したと記す。鉤弋夫人の死について、漢書外戚伝は譴責されて憂えて死んだとし、史記に補われた褚少孫の文と資治通鑑は、幼い君主と若い母が国を乱すのを防ぐため武帝が死なせたと書く。武帝紀は死因を記さない。
在位中の出来事(37件)
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前漢の歴代皇帝
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