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前漢(ぜんかん)第2代統一王朝

恵帝(けいてい)劉(りゅう)盈(えい)

在位 前195年6月23日〜前188年9月26日(7年97日)

姓劉(りゅう)諱盈(えい)

恵帝の人物データ

生年
前210年
在位
  • 前195年6月23日〜前188年9月26日
在位 7年97日16歳で即位(数え年)・長さは365名中154位
没年
前188年9月26日23歳(数え年)267名中長寿順217位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 高祖前漢恵帝は高祖の子
次代
  • 前少帝前漢前少帝は恵帝の子(異説あり)

出典(死因・即位経路)

死因
漢書・惠帝紀(史記・呂太后本紀と一致)
即位経路
漢書・惠帝紀(史記・呂太后本紀と一致)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

高祖(こうそ)と呂后(りょこう)の子で、太子の座を危うく保って即位したが、母の呂太后(たいこう)の残虐を目の当たりにして政から離れ、若くして没した前漢(ぜんかん)の皇帝である。漢書(かんじょ)の賛(さん)は寛仁の主と評しつつ、呂太后(たいこう)がその徳を損なったことを悲しむ。

即位まで

前205年に太子に立てられた。史記(しき)によれば、高祖(こうそ)は太子を仁弱で自分に似ないとして、廃して戚姫(せきき)の子の如意(じょい)を立てようとたびたび考えた。留侯世家(りゅうこうせいか)によれば、呂后(りょこう)に頼まれた張良が、高祖(こうそ)が招けずにいた四人の老人を太子の客にする策を授けた。高祖(こうそ)が最晩年に開いた宴で、八十余歳の四人が太子に従っているのを見た高祖(こうそ)は、羽翼すでに成ったとして太子を易えるのを諦めた。漢書(かんじょ)の外戚(がいせき)伝は、廃されなかった理由に大臣の諫争(かんそう)・叔孫(しゅくそん)通の諫(いさ)め・張良の策を挙げ、四人には触れない。同じ年に高祖(こうそ)が没して即位した。即位の日を漢書(かんじょ)は丙寅(へいいん)とし、史記(しき)と資治通鑑(しじつがん)はその日を高祖(こうそ)の葬日として、即位を3日後の己巳(きし)とする。

治世と最期

呂太后(たいこう)が趙王(ちょうおう)如意(じょい)を殺そうとしていると知った恵帝(けいてい)は、自ら迎えて寝食をともにして守ったが、前194年に早朝の狩りに出た隙に趙王(ちょうおう)は毒殺された。呂太后(たいこう)は戚夫人(せきふじん)の手足を断って厠(かわや)に置き、人彘(じんてい)と呼んだ。それを見せられた恵帝(けいてい)は大いに泣いて一年余り病で起きられず、以後は酒色にふけって政を聴かなかったと史記(しき)は記す。前192年、姉の魯元公主(ろげんこうしゅ)の娘の張氏(ちょうし)を皇后に立てた。前191年には冠礼(かんれい)を行って大赦し、挟書律(きょうしょりつ)を除いた。前188年に未央宮(びおうきゅう)で没した。漢書(かんじょ)の本紀(ほんぎ)は死因を書かず、人彘(じんてい)の件にも触れない。史記(しき)は人彘(じんてい)の一件のあとに病んだことを記すが、崩御(ほうぎょ)の条には死因を書いていない。死に際して呂太后(たいこう)は哭(こく)しても涙を流さなかったが、丞相(じょうしょう)が張辟彊(へききょう)の策に従って呂氏(りょし)の一族を南北軍(なんぼくぐん)の将に請い、ここから呂氏(りょし)の権力が起こった。

在位中の出来事(2件)

立后前192年四年冬十月壬寅、皇后張氏(張嫣、宣平侯張敖と魯元公主の娘、恵帝の甥姪にあたる)を立后。
大赦前191年四年三月甲子、皇帝冠す(元服)。

前漢の歴代皇帝

14名の一覧

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