
魏(三国)第1代分裂期の王朝
文帝曹丕
在位 220年12月10日〜226年6月29日(5年202日)
文帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 三國志 魏書二 文帝紀
- 即位経路
- 三國志 魏書二 文帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
後漢の献帝から位を譲られて魏を建てた皇帝である。陳寿は、文才に富み博識多芸だったとし、度量の広さと公平さが加われば古の賢主に遠くないと評する。
即位まで
曹操の太子で、譙で生まれた。211年に五官中郎将・副丞相となり、217年に魏の太子に立てられた。曹植伝によれば、曹操は才能のある曹植を何度も太子にしかけたが、文帝は術を用いて感情を抑え身を飾り、側近たちも口添えしたので後継に定まった。賈詡伝によれば、後継を問われた賈詡が袁紹・劉表の父子のことを思っていたと答え、曹操は大笑して太子が定まった。220年、曹操が没すると丞相と魏王を継ぎ、延康と改元した。同じ年、献帝は衆望が魏にあるとして位を譲り、裴注の引く献帝伝によれば、文帝は辞退の令を重ねた。繁陽に築いた壇で即位して黄初と改元し、献帝を山陽公とした。
治世と最期
陳羣伝によれば、魏王を継いだころ、九品官人の法が陳羣の建議で定められたが、本紀はこれを書かない。221年に夫人の甄氏が没し、本紀は卒したとだけ書くが、后妃伝は怨みを口にした甄氏に文帝が大いに怒って死を賜ったとする。222年には婦人や后族が政に関わることを禁じ、郭氏を皇后に立てた。同じ年、封土も寝殿も設けず金銀を納めない薄葬を命じた。孫権が再び背くと南へ兵を出したが、孫権は長江に臨んで守った。225年には広陵で十余万の兵を閲したものの、川が凍って舟が長江に入れず引き返した。226年に病が重くなり、曹真・陳羣・曹休・司馬懿に後を託して嘉福殿で没した。裴注の引く魏略には、まだ太子が立たないころに相者の高元呂が寿命を占い、そのとおりの年で没したという話がある。七歩詩の逸話は三国志の本文にも注にも無く、世説新語に見える。
在位中の出来事(8件)
魏の歴代皇帝
5名の一覧- 第1代文帝220–226年病死
- 第2代明帝226–239年病死
- 第3代曹芳239–254年不詳
- 第4代曹髦254–260年暗殺
- 第5代元帝260–266年不詳