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明帝の肖像

魏(ぎ)(三国(さんごく))第2代分裂期の王朝

明帝(めいてい)曹(そう)叡(えい)

在位 226年6月29日〜239年1月22日(12年210日)

姓曹(そう)諱叡(えい)字元仲(げんちゅう)廟号烈祖(れつそ)

明帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 226年6月29日〜239年1月22日
在位 12年210日23歳で即位(数え年)・長さは365名中110位
没年
239年1月22日36歳(数え年)267名中長寿順151位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 文帝魏明帝は文帝の子
次代
  • 曹芳魏曹芳は明帝の養子

出典(死因・即位経路)

死因
三國志 魏書三 明帝紀
即位経路
三國志 魏書三 明帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

諸葛亮(しょかつりょう)の北伐(ほくばつ)を防ぎ、司馬懿(しばい)に遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)を討たせた魏(ぎ)の皇帝である。陳寿(ちんじゅ)の評は、君主の器量があったとしながら、民が疲れているときに宮殿の造営に走ったことを批判する。

即位まで

文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))の子である。母の甄夫人(しんふじん)が誅(ちゅう)されたため、長く後継ぎに立てられなかった。裴松之(はいしょうし)注が引く魏略(ぎりゃく)は、文帝(ぶんてい)が別の姫の子の京兆王(けいちょうおう)を後継ぎにする考えを持ち、久しく太子を立てなかったと記し、続いて引く魏末伝(ぎまつでん)は、狩りで母鹿を射た文帝(ぶんてい)に子鹿を射よと言われ、母を殺したうえ子まで殺せないと泣いて断ったので、文帝(ぶんてい)が後継ぎに立てる意を固めたという話を伝える。226年、文帝(ぶんてい)が重い病になってようやく皇太子に立てられ、即位した。

治世と最期

228年に諸葛亮(しょかつりょう)が攻め込むと張郃(ちょうこう)が街亭(がいてい)で大破し、234年には司馬懿(しばい)と対峙(たいじ)していた諸葛亮(しょかつりょう)が没して蜀軍(しょくぐん)は引き揚げた。238年には司馬懿(しばい)が遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)を破り、海東の諸郡を平定した。洛陽宮(らくようきゅう)の大造営で民が農時を失い、楊阜(ようふ)・高堂隆(こうどうりゅう)らが繰り返し諫(いさ)めたが、明帝(めいてい)は造営をやめず、諫(いさ)めた者も罰しなかった。238年の暮れに病に臥(ふ)し、燕王(えんおう)曹宇(そうう)を大将軍(だいしょうぐん)としたが、すぐに曹爽(そうそう)に代えた。239年、河内(かだい)から駆けつけた司馬懿(しばい)の手を取って、曹爽(そうそう)とともに幼い子を補佐するよう託し、その日のうちに没した。没した年齢を三国(さんごく)志の本文は36とするが、裴松之(はいしょうし)は生まれた年から数えて35にしかならないと注している。

在位中の出来事(17件)

大赦226年6月29日黄初七年五月十七日丁巳、即位当日に大赦。
改元227年元号を「太和」とする
立后227年太和元年十一月、毛氏を皇后に立てる。
被反乱227年西平曲英の乱
被反乱228年新城太守孟達の反乱
大赦231年太和五年秋七月乙酉、皇子殷(後の安平哀王)誕生に伴う大赦。
改元233年元号を「青龍」とする
被反乱233年保塞鮮卑歩度根の離反
被反乱233年安定保塞匈奴胡薄居姿職の反乱
大赦234年青龍二年三月、山陽公(後漢献帝)薨去に際し帝が素服して哀を発した直後の己酉、大赦。
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親征234年孫権(呉)合肥新城方面
改元237年元号を「景初」とする
大赦237年景初元年五月、洛陽宮に還った直後の己丑、大赦。
被反乱237年〜238年遼東公孫淵の反乱(燕王自立)
大赦238年景初二年四月、沛国分割等の詔に続く庚戌、大赦。
被反乱238年焼当羌王芒中・注詣らの反乱
立后239年1月景初二年十二月、帝の病篤化に際し辛巳の日に皇后を立てる。

魏の歴代皇帝

5名の一覧

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