魏(三国)第3代分裂期の王朝
曹芳
在位 239年1月22日〜254年10月17日(15年272日)
曹芳の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 三國志 魏書四 三少帝紀 裴松之注引魏世譜
- 即位経路
- 三國志 魏書四 三少帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
幼くして明帝の跡を継ぎ、司馬懿が曹爽を倒した高平陵の変を経て、司馬師に廃された魏の皇帝である。
即位まで
明帝には子が無く、曹芳と秦王詢を養子とし、宮中のことは秘されて曹芳の出自を知る者はいなかったと三国志の本文は書く。裴松之の注が引く魏氏春秋と資治通鑑は、任城王曹楷の子とする説を、ある人の言として伝える。239年、明帝は臨終に司馬懿の手を取り、曹爽とともに幼い子を輔けるよう託した。その日に曹芳は皇太子となって即位し、曹爽と司馬懿が政治を補佐した。
治世と最期
曹爽は丁謐の策で司馬懿を太傅に移し、名目で尊びながら政務の上奏を自分に先に通させようとした。249年、曹芳が高平陵に参詣して曹爽兄弟が随行した隙に、司馬懿は武器庫を押さえ、曹爽・何晏らは三族まで殺された。251年には王淩が曹芳を廃して楚王曹彪を立てようと謀り、司馬懿に攻められて自殺した。254年、李豊と皇后の父張緝らが夏侯玄を大将軍に立てようとして誅された。三国志の本文は曹芳の関与を書かないが、晋書の景帝紀は曹芳自身が謀の中心だったとする。裴注の引く書は、司馬昭を殺す詔まで用意しながら曹芳が恐れて果たせなかった話を伝え、裴松之は謀の主とされる許允がこのとき領軍の職にあったはずがないと疑うが、資治通鑑は許允の名を外して廃位のきっかけとして本文に採る。同じ年、司馬師が皇太后に告げ、成年になっても政務を見ずに内寵と倡優に耽ったという太后令で斉王に戻され、別宮へ移った。晋書の范粲伝は、移った先を金墉城とする。晋が魏に代わると邵陵県公に封じられ、274年に没したと裴注の引く魏世譜は記すが、死因はどの書にも無い。
在位中の出来事(16件)
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魏の歴代皇帝
5名の一覧- 第1代文帝220–226年病死
- 第2代明帝226–239年病死
- 第3代曹芳239–254年不詳
- 第4代曹髦254–260年暗殺
- 第5代元帝260–266年不詳