
呉・三国第4代分裂期の王朝
末帝孫晧
在位 264年9月3日〜280年5月1日(15年244日)
姓孫諱晧字元宗
末帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 三國志 呉書三 三嗣主傳
- 即位経路
- 三国志・呉書・三嗣主伝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
孫晧は三国の呉の最後の皇帝で、暴政で人心を失い、280年に晋に降って呉は滅んだ。
即位まで
孫権の孫で孫和の子にあたり、孫休が即位すると烏程侯に封じられた。264年に孫休が没すると、蜀が滅び交阯も背いて年長の君主が求められ、万彧が孫晧を推し、濮陽興と張布が孫休の妃の朱太后を説いて、孫晧が迎え立てられた。江表伝によれば、孫休は死の床で口がきけず、手書で濮陽興を呼んで子を託していた。江表伝はまた、即位当初は倉を開いて貧者を救うなどして、明主と称されたと記す。
治世と最期
やがて粗暴で酒色を好むようになり、擁立を悔いた濮陽興と張布は、即位の年のうちに讒言にあって殺された。濮陽興伝は、讒言したのを万彧と名指している。翌年には孫休の皇后の朱氏を死に追いやり、孫休の子のうち年長の二人を殺した。同じ年に武昌へ都を移し、267年に建業へ戻した。272年には西陵督の歩闡が晋に降り、陸抗が城を囲んで取った。宴では群臣を泥酔させて過失を罰し、人の顔の皮を剥ぎ目をえぐる刑を行ったので、上下の心が離れた。280年、晋軍が迫ると、近臣数百人に求められて寵臣の岑昬を殺し、最初に到着した王濬に降った。一家とともに西へ移されて帰命侯の号を賜わり、その日を三国志と晋書は違えている。資治通鑑によれば、晋の武帝がこの座を設けて待っていたと言うと、孫晧は自分も南方で同じ座を設けて陛下を待っていたと答えた。三国志の本文は、太康五年に洛陽で死んだとだけ記し、死因も享年も書かない。裴注の引く呉録はその前年の暮れに四十二歳で死んだとし、資治通鑑も前年の条に置く。
在位中の出来事(30件)
改元264年9月3日元号を「元興」とする
大赦264年9月3日孫休薨去後、群臣により孫皓が擁立され即位。
立后264年11月元興元年十月、滕氏を皇后に立てる。
改元265年元号を「甘露」とする
大赦265年甘露元年夏四月、蔣陵に甘露が降ったとして改元・大赦。
大赦265年甘露元年十一月~十二月頃、孫皓が武昌に至り再度大赦。
遷都265年建業 → 武昌
改元266年元号を「宝鼎」とする
大赦266年寶鼎元年八月、大鼎発見の瑞祥により改元・大赦。
被反乱266年施但の乱
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大赦267年寶鼎二年春、大赦。
遷都267年武昌 → 建業
改元269年元号を「建衡」とする
大赦269年建衡元年冬十月、改元・大赦。
大赦270年
大赦271年建衡三年、虞汜・陶璜らが交阯を破った年に大赦。
改元272年元号を「鳳皇」とする
大赦272年鳳皇元年秋八月、西陵督步闡の乱平定後に大赦。
被反乱272年西陵督歩闡の反乱(西陵の戦い)
大赦273年鳳皇二年秋九月、諸王封建に伴い大赦。
被反乱274年臨海太守奚熙の武装抵抗
改元275年元号を「天冊」とする
大赦275年天冊元年、銀発見の瑞祥により大赦・改元。
改元276年元号を「天璽」とする
大赦276年天璽元年、臨平湖開通等の瑞祥により改元・大赦。
大赦276年天璽元年内(秋八月以降、年末頃)、石文瑞祥に応じ翌年(天紀)への改元を布告すると同時に大赦。
改元277年元号を「天紀」とする
大赦277年天紀二年秋七月、成紀・宣威等十一王封建に伴い大赦。
被反乱279年郭馬の乱
大赦280年天紀四年春、中山・代等十一王封建に伴い大赦(呉滅亡直前)。
呉・三国の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代大帝229–252年不詳
- 第2代孫亮252–258年諸説あり
- 第3代景帝258–264年不詳
- 第4代末帝264–280年不詳