
後漢第1代統一王朝
光武帝劉秀
在位 25年8月5日〜57年3月29日(31年244日)
姓劉諱秀字文叔廟号世祖
光武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書・巻一上・巻一下 光武帝紀
- 即位経路
- 後漢書・巻一上・巻一下 光武帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
昆陽の戦いで王莽の大軍を破って名を上げ、河北から立って後漢を開き、天下を一つにした皇帝である。
即位まで
前漢の高祖の九世の孫で、父は南頓令の劉欽である。王莽の末の飢饉のなか、22年に宛で兵を挙げた。23年に更始帝が立てられ、同じ年の昆陽の戦いでは決死の兵三千で王莽軍の中堅を衝き、百万と号した軍を潰走させた。兄が更始帝に殺されると、宛に赴いて謝り、自分の功も誇らず喪にも服さなかった。24年に邯鄲を落として王郎を誅し、内通の文書数千通を見ずに焼かせた。更始帝に兵を解くよう求められても、河北がまだ平らいでいないとして応じず、ここから更始帝と離れた。25年、諸将の推戴を受けて鄗の南で即位し、建武と建元した。
治世と最期
27年に赤眉が降って高皇帝の璽綬を差し出し、36年には公孫述が成都で敗れて死んだ。隴・蜀を平らげてからは、危急でない限り軍事を語らず、功臣を退けて文吏を用いた。39年、州郡に田の面積と戸口を調べさせ、40年には不正をした郡守十余人が獄死した。天文志と資治通鑑は、光武帝がのちにこの処刑を悔やんだと記すが、本紀はこれを記さない。54年に群臣が封禅を勧めたときは、民の怨みが腹に満ちているのに天を欺くのかと退けた。56年に泰山で封禅を行い、中元と改元した。57年に南宮前殿で没し、遺詔で文帝にならった倹約を命じた。
在位中の出来事(39件)
改元25年8月5日元号を「建武」とする
大赦25年8月5日
大赦26年
大赦26年
立后26年
親征26年五校(別号諸賊、独立群雄・未服属)
被反乱26年真定王劉楊・臨邑侯讓の謀反
被反乱26年〜29年彭寵の乱
被反乱26年〜27年鄧奉の乱
大赦27年
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大赦27年
親征27年赤眉残党(独立群雄・未服属)
親征27年邓奉(元・破虜将軍、既に服属していた漢の武将による反乱)
被反乱27年〜28年張豐の乱
大赦28年
大赦29年
親征29年庞萌・蘇茂(庞萌は元・平狄将軍で既に服属していた漢の武将による反乱、蘇茂は更始配下から続く未服属の群雄勢力)
被反乱29年〜30年龐萌の乱
被反乱30年楽浪王調の乱
大赦31年
親征32年隗囂(独立群雄・西州大将軍を自称し後に漢に反した勢力、本タスク指示により統一戦争扱い)
親征32年潁川盗賊(既に服属していた漢の郡県内の武装蜂起)
被反乱32年潁川盗賊の蜂起
被反乱32年河東守兵の叛乱
被反乱32年張歩の再叛(琅邪への逃亡蜂起)
親征35年公孫述(独立群雄・巴蜀に自立し天子を称した勢力、統一戦争扱い)
被反乱40年〜43年交阯・徴側(微側)の反乱
立后41年
被反乱41年妖巫李広の皖城蜂起
被反乱42年史歆の乱
皇太子廃立43年
被反乱43年妖巫単臣・傅鎮の原武蜂起
被反乱45年安定属国胡の叛乱
被反乱47年南郡蛮の叛乱
被反乱47年〜49年武陵蛮の叛乱
大赦48年
改元56年元号を「中元」とする
大赦56年
被反乱56年参狼羌の武都侵寇・鎮圧
後漢の歴代皇帝
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