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後漢(ごかん)第13代統一王朝

少帝(しょうてい)劉(りゅう)辯(べん)

在位 189年5月15日〜189年9月28日(136日)

姓劉(りゅう)諱辯(べん)諡号懐王(かいおう)別称弁(べん)別名少帝(しょうてい)弁(べん)・弘農懐王(こうのうかいおう)

少帝の人物データ

生年
173年
在位
  • 189年5月15日〜189年9月28日
在位 136日17歳で即位(数え年)・長さは365名中331位
没年
190年3月6日18歳(数え年)267名中長寿順244位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
継承(経緯記載なし)
先代
  • 霊帝後漢少帝は霊帝の子
次代
  • 献帝後漢献帝は少帝の弟

出典(死因・即位経路)

死因
後漢書 皇后紀下・董卓列伝
即位経路
後漢書・本紀第九章 孝霊帝紀/列伝第六十三章 竇何列傳

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

少帝(しょうてい)(劉(りゅう)辯(べん))は後漢(ごかん)の霊帝(れいてい)の子で、即位した年のうちに董(とう)卓に廃され、翌年に毒殺された。

即位まで

母は何皇后(かこうごう)で、幼いころは道人(どうじん)の史氏(しし)の家で養われ、史侯(しこう)と呼ばれた。霊帝(れいてい)は劉(りゅう)辯(べん)を軽々しく人主に向かないと見て、王貴人(きじん)の生んだ劉(りゅう)協(きょう)との間で太子を長く決めなかった。189年、霊帝(れいてい)は臨終に劉(りゅう)協(きょう)を宦官(かんがん)の蹇(けん)碩(せき)に託したが、蹇(けん)碩(せき)が何進を殺して劉(りゅう)協(きょう)を立てようとした謀は成らず、劉(りゅう)辯(べん)が即位して何太后(たいこう)が臨朝(りんちょう)した。

治世と最期

外戚(がいせき)の何進は、宦官(かんがん)を除くため袁紹(えんしょう)らの策で董(とう)卓ら四方の将を都へ呼び寄せた。同じ年、何進は宦官(かんがん)の張讓(じょう)らに宮中へ誘い出されて斬られ、袁術(えんじゅつ)が宮を焼くと、張讓(じょう)らは劉(りゅう)辯(べん)と陳留王(ちんりゅうおう)の劉(りゅう)協(きょう)を連れて小平津(しょうへいしん)まで逃げた。二人は夜、蛍の光を頼りに歩いて民家にたどり着いたという。北芒(ほくぼう)で董(とう)卓に迎えられた劉(りゅう)辯(べん)は恐れて泣くばかりだったが、陳留王(ちんりゅうおう)は乱の次第を語ったので、董(とう)卓は陳留王(ちんりゅうおう)を賢いと見た。董(とう)卓は何太后(たいこう)を脅して劉(りゅう)辯(べん)を廃させ、弘農(こうのう)王とした。190年、山東(さんとう)で義兵が起こると、董(とう)卓は郎中令(ろうちゅうれい)の李(り)儒に毒酒を進めさせ、弘農(こうのう)王は妻の唐姫(とうき)らと別れの宴をして悲歌を作ったのち、これを飲んで死んだ。死んだ日を後漢(ごかん)書の献帝(けんてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)は癸酉(きゆう)とし、後漢(ごかん)紀(き)は癸丑(きちゅう)とし、その校注は癸酉(きゆう)がその月に無い日だとする。三国(さんごく)志の董(とう)卓伝は、弘農(こうのう)王と何太后(たいこう)を殺してから陳留王(ちんりゅうおう)を立てたという順に記す。

在位中の出来事(5件)

改元189年5月15日元号を「光熹」とする
大赦189年5月15日中平六年四月戊午(189年5月15日)、少帝(劉辯)即位に伴う大赦。
改元189年9月25日元号を「昭寧」とする
大赦189年9月25日中平六年八月辛未(189年頃)、宦官の乱(張讓・段珪による何進殺害、少帝拉致)を経て還宮した際の大赦、および光熹から昭寧への改元。
被反乱189年9月28日〜190年3月6日董卓の廃立・弘農王毒殺

後漢の歴代皇帝

14名の一覧

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