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袁術の肖像

仲家(ちゅうか)(後漢(ごかん))第1代反乱・自称政権

袁術(えんじゅつ)

在位 197年2月〜199年7月(2年150日)

姓袁(えん)諱術(じゅつ)字公路(こうろ)

袁術の人物データ

生年
不詳
在位
  • 197年2月〜199年7月
在位 2年150日長さは365名中246位
没年
199年7月
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
三國志 魏書六 董二袁劉傳 裴松之注引呉書
即位経路
後漢書 劉焉袁術呂布列傳

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

後漢(ごかん)の末に九江(きゅうこう)で帝号(ていごう)を名乗り、仲家(ちゅうか)と称した群雄である。

即位まで

司空(しくう)袁逢(えんほう)の子で、三国(さんごく)志は袁紹(えんしょう)の従弟とする。董(とう)卓に後将軍(こうしょうぐん)に任じられたが、禍を恐れて南陽(なんよう)に逃れ、のちに九江(きゅうこう)に移って揚州(ようしゅう)刺史(しし)の陳温を殺し、州を自ら治めた。漢に代わる者は当塗高(とうとこう)であるという予言に自分の名と字が当たると考え、天子が曹陽(そうよう)で敗れたときに臣下に帝位を諮ったが、閻(えん)象に諫(いさ)められて黙った。197年、河内(かだい)の張炯(けい)が示した符命(ふめい)を根拠に帝号(ていごう)を名乗り、公卿(こうけい)百官を置いて天地を祭った。

治世と最期

陳国(ちんこく)を攻めて陳王(ちんおう)の劉寵(りゅうちょう)をだまして殺したが、曹操(そうそう)が自ら来ると聞いて淮水(わいすい)を渡って逃げた。帝号(ていごう)を名乗ってからはますます贅沢(ぜいたく)になり、後宮の女性は数百人に及んだが、配下が飢えても顧みず、江淮(こうわい)の地では人が人を食べた。199年、宮室を焼いて部下の陳簡・雷薄を頼ったが拒まれ、帝号(ていごう)を袁紹(えんしょう)に譲ろうとした。最期の様子は書によって詳しさが違う。三国(さんごく)志の本文は、青州(せいしゅう)の袁(えん)譚(たん)のもとへ向かう途中で病んで死んだとだけ書く。後漢(ごかん)書は、劉備(りゅうび)に道を遮られて江亭(こうてい)へ戻り、袁術(えんじゅつ)がこんな有様になったかと嘆き、憤りから病んで血を吐いて死んだと書く。裴松之(はいしょうし)注が引く呉書(ごしょ)はさらに詳しく、台所には麦くずしか無く、暑い盛りに蜜水を求めても手に入らず、寝台の下に伏して血を一斗余り吐いたと記す。

在位中の出来事(2件)

親征197年10月陳国(陳王劉寵・陳相駱俊、その後駆けつけた曹操自身の軍)
被反乱199年灊山の旧部曲(雷薄・陳蘭)による拒絶・離反

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