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明帝の肖像

東晋(とうしん)第2代分裂期の王朝

明帝(めいてい)司馬(しば)紹(しょう)

在位 323年1月4日〜325年10月18日(2年288日)

姓司馬(しば)諱紹(しょう)字道畿(どうき)廟号粛祖(しゅくそ)

明帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 323年1月4日〜325年10月18日
在位 2年288日長さは365名中232位
没年
325年10月18日27歳(数え年)267名中長寿順201位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 元帝東晋明帝は元帝の子
次代
  • 成帝東晋成帝は明帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 帝紀第六 肅祖明帝
即位経路
晉書 帝紀第六 肅祖明帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

即位の翌年に王敦(とん)の挙兵を自ら兵を率いて退け、その翌年に若くして病没した東晋(とうしん)の皇帝である。

即位まで

元帝(げんてい)の長子で、元帝(げんてい)が晋王(しんおう)となると晋王(しんおう)太子(たいし)に、帝位に就くと皇太子に立てられた。幼いころ、日と長安(ちょうあん)のどちらが遠いかと元帝(げんてい)に問われ、翌日には前の日と逆の答えをして理由を述べ、いっそう奇とされた。太子のころから王導・庾(ゆ)亮(りょう)・温嶠(きょう)らを親しく遇し、文辞を好んで武芸も習った。322年に王敦(とん)が兵を挙げたときには、自ら決戦に出ようとして温嶠(きょう)に車の鞅(むながい)を剣で断たれて止められ、王敦(とん)が太子を廃そうとしたときも温嶠(きょう)の答えで沙汰止みになった。元帝(げんてい)が没した翌日に即位し、それは西暦では323年の初めにあたる。

治世と最期

王敦(とん)は朝廷に自分を召させたうえで姑孰(こじゅく)に移り、揚州牧(ようしゅうぼく)を自ら兼ねた。晋書(しんじょ)の明帝(めいてい)紀(き)によれば、324年に王敦(とん)が挙兵を図ると、明帝(めいてい)は駿馬(しゅんば)で忍んで王敦(とん)の陣営を探り、黄色い鬚(ひげ)の鮮卑奴(せんぴど)と追われたが、七宝の鞭(むち)と冷えた馬糞(ばふん)で追手をまいた。資治通鑑(しじつがん)はこの逸話を載せない。同じ年、王含・銭鳳(ほう)らの水陸五万が迫ると、明帝(めいてい)は自ら六軍(りくぐん)を率いて出陣し、段秀らに夜のうちに川を渡らせて奇襲させ、越城(えつじょう)で大破した。王敦(とん)は挙兵の前から病が重く、王含の敗報に怒って起き上がろうとして果たせず、まもなく死んだ。沈充・銭鳳(ほう)の軍も破れて乱は平らぎ、王敦(とん)の遺体は掘り出されて斬られた。325年に皇子の司馬衍(しばえん)を皇太子に立てた。同じ年に病が重くなると、王導・卞(べん)壼(こん)・郗鑒(ちかん)・庾(ゆ)亮(りょう)・温嶠(きょう)らに遺詔(いしょう)を受けさせて太子を輔(たす)けさせ、東堂(とうどう)で没した。資治通鑑(しじつがん)は、病の重いとき庾(ゆ)亮(りょう)が寝所に押し入って西陽王(せいようおう)羕(よう)らが大臣を廃そうとしていると訴えたが、明帝(めいてい)は受け入れなかったと書く。

在位中の出来事(11件)

大赦323年1月4日永昌元年閏月庚寅、太子(明帝)が即位して大赦した(元帝の崩御は前日の己丑)。
被反乱323年3月越巂太守李釗・漢嘉太守王載の郡叛(成漢へ降伏)
改元323年4月元号を「太寧」とする
立后323年7月太寧元年六月壬子、庾氏を皇后に立てる。
被反乱323年7月〜323年8月梁碩の反乱(交州侵攻)
大赦324年太寧二年秋七月丁酉、王敦の乱平定・帝の還宮に伴う大赦(敦の党与のみ除く)。
親征324年王敦(反乱軍、王含・銭鳳・周撫・鄧岳ら)
被反乱324年王敦の再挙兵(第二次反乱)
被反乱325年1月顧颺(沈充旧部将)の武康挙兵
被反乱325年1月梁水太守爨亮・興古太守李逷の郡叛(成漢へ降伏)
残り1件を表示
大赦325年4月太寧三年三月戊辰、皇子衍を皇太子に立てるのに伴う大赦。

東晋の歴代皇帝

11名の一覧

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