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東晋(とうしん)第8代分裂期の王朝

簡文帝(かんぶんてい)司馬(しば)昱(いく)

在位 372年1月6日〜372年9月12日(250日)

姓司馬(しば)諱昱(いく)字道万(どうばん)廟号太宗(たいそう)

簡文帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 372年1月6日〜372年9月12日
在位 250日長さは365名中302位
没年
372年9月12日53歳(数え年)267名中長寿順70位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
次代

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 帝紀第九 太宗簡文帝
即位経路
晉書 帝紀第九 太宗簡文帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

桓温(かんおん)が廃帝(はいてい)を退けたあとに立てられ、常に廃されることを恐れながら桓温(かんおん)の下で没した東晋(とうしん)の皇帝である。

即位まで

元帝(げんてい)の末子で、会稽(かいけい)王として丞相(じょうしょう)・録尚書(ろくしょうしょ)を務めていた。桓温(かんおん)は枋頭(ほうとう)の敗戦で落ちた威名を取り戻そうと廃立を図り、廃帝(はいてい)を子のできない身だと言いふらして退けた。皇太后の詔で会稽(かいけい)王が後を継ぐことになり、桓温(かんおん)が百官を率いて会稽(かいけい)王の邸へ迎えに行き、372年の初めに即位して咸安(かんあん)と改元(かいげん)した。

治世と最期

桓温(かんおん)は廃立の弁明をしようと引見されたが、帝が泣くのを前に言葉が出なかった。桓温(かんおん)が武陵王(ぶりょうおう)晞(き)の誅殺(ちゅうさつ)を再三求めると、帝は晋(しん)の命運が尽きたのなら自分が位を譲ると手詔(しゅしょう)で答え、桓温(かんおん)は汗を流してそれ以上言わなかった。それでも帝は常に廃されることを恐れており、熒惑(けいこく)が太微(たいび)に入ると、また廃立が起きはしないかと郗(ち)超に尋ねた。372年、前護軍将軍(ぜんごぐんしょうぐん)の庾(ゆ)希が京口(けいこう)に入って挙兵したが、桓温(かんおん)の遣わした周少孫(しょうそん)に捕らえられて建康(けんこう)の市で斬られた。同じ年、司馬(しば)昌明(しょうめい)を皇太子に立てたその日に東堂(とうどう)で没した。病中には桓温(かんおん)を呼ぶ詔が一昼夜に4度出たと桓温(かんおん)伝は記す。王坦之(たんし)伝によれば、帝ははじめ桓温(かんおん)に周公(しゅうこう)の居摂(きょせつ)の故事に依らせる詔を出したが、王坦之(たんし)が帝の前でそれを破り、書き改めさせた。晋書(しんじょ)の本紀(ほんぎ)に残る遺詔(いしょう)は、諸葛亮(しょかつりょう)と王導の故事に依って桓温(かんおん)に政を輔(たす)けさせるというもので、禅位(ぜんい)か、さもなくば周公(しゅうこう)の居摂(きょせつ)を望んでいた桓温(かんおん)は深く憤った。

在位中の出来事(3件)

改元372年1月元号を「咸安」とする
大赦372年1月15日
被反乱372年8月庾希の乱

東晋の歴代皇帝

11名の一覧

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