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光文帝の肖像

前趙(ぜんちょう)・漢趙(かんちょう)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第1代分裂期の王朝

光文帝(こうぶんてい)劉淵(りゅうえん)

在位 308年〜310年8月29日(2年241日)

姓劉(りゅう)諱淵(えん)字元海(げんかい)廟号高祖(こうそ)

光文帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 308年〜310年8月29日
在位 2年241日長さは365名中235位
没年
310年8月29日
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 劉和前趙・漢趙劉和は光文帝の子
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第一 劉元海
即位経路
晉書 載記第一 劉元海

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

劉淵(りゅうえん)は匈奴(きょうど)の出身で、漢氏(かんし)の甥(おい)を名乗って国号を漢とし、304年に漢王、308年に皇帝の位に即いた。晋(しん)が八王(はちおう)の乱で乱れる中、匈奴(きょうど)の五部(ごぶ)を率いて自立した。

即位まで

字は元海(げんかい)で、晋書(しんじょ)の載記(さいき)は唐の高祖(こうそ)の廟諱(びょうき)を避けて字で呼ぶ。漢の高祖(こうそ)が宗女(そうじょ)を冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)に嫁がせて兄弟の約を結んだことから、その子孫は劉氏(りゅうし)を名乗り、劉淵(りゅうえん)の父は左賢王(さけんおう)の劉豹(りゅうひょう)だった。魏(ぎ)の末には人質として洛陽(らくよう)にいて司馬昭(しばしょう)に厚遇され、晋(しん)になると武帝(ぶてい)も劉淵(りゅうえん)を高く評価したが、孔恂(じゅん)と楊(よう)珧(よう)は異民族を重用すべきでないと反対した。斉王(せいおう)攸(ゆう)も劉淵(りゅうえん)を除くよう進言したが、王渾(こん)が劉淵(りゅうえん)を保証し、武帝(ぶてい)はその言を採った。父の死後は左部帥(さぶすい)を継ぎ、建威将軍(けんいしょうぐん)・五部大都督(ごぶだいととく)にまで進んだ。八王(はちおう)の乱が起こると、従祖の劉(りゅう)宣らは匈奴(きょうど)の再興を謀ってひそかに劉淵(りゅうえん)を大単于(ぜんう)に推した。劉淵(りゅうえん)は成都王(せいとおう)穎(えい)を説いて左国城(さこくじょう)に戻り、大単于(ぜんう)の号を受けて二十日で五万の衆を集め、離石(りせき)を都とした。304年に南郊で漢王の位に即いて元熙(げんき)と建元(けんげん)し、蜀漢(しょくかん)の劉(りゅう)禅(ぜん)を孝懐皇帝(こうかいこうてい)と追尊(ついそん)した。

治世と最期

308年に皇帝の位に即いて永鳳(えいほう)と改元(かいげん)した。資治通鑑(しじつがん)によれば都はこのとき蒲子(ほし)にあり、晋書(しんじょ)の懐帝(かいてい)紀(き)だけが即位を平陽(へいよう)でのこととする。のちに平陽(へいよう)に遷都し、汾水(ふんすい)で得た玉璽(ぎょくじ)を瑞祥(ずいしょう)として河瑞(かずい)と改元(かいげん)した。子の劉聡(りゅうそう)と王弥に洛陽(らくよう)を攻めさせたが、劉聡(りゅうそう)は偽りの降伏による夜襲で大敗して帰り、劉淵(りゅうえん)は素服で軍を迎えた。皇后に単氏(ぜんし)を、皇太子に子の劉和(りゅうか)を立てた。310年、病が重くなると劉(りゅう)歓楽(かんらく)・劉(りゅう)洋らを禁中(きんちゅう)に召して遺詔(いしょう)を受けさせ、まもなく死んだ。死去の月は書によって異なり、懐帝(かいてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)で一月ずれ、資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)の説を暦が合わないとして退けている。劉淵(りゅうえん)の載記(さいき)は子の劉和(りゅうか)が立ったとだけ記すが、懐帝(かいてい)紀(き)は劉和(りゅうか)の弟の劉聡(りゅうそう)が劉和(りゅうか)を殺して自立したと記す。

在位中の出来事(6件)

改元308年元号を「永鳳」とする
大赦308年
遷都308年蒲子 → 平陽
改元日付不詳元号を「河瑞」とする
大赦日付不詳
立后日付不詳

前趙・漢趙の歴代皇帝

5名の一覧

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