前趙・漢趙(五胡十六国)第4代分裂期の王朝
隠帝劉粲
在位 318年〜318年(30日)
姓劉諱粲字士光
隠帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第二 劉聰(劉粲)
- 即位経路
- 晉書 載記第二 劉聰(劉粲)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
父の劉聡の跡を継いだ漢(前趙)の皇帝で、即位したその年に外戚の靳準に捕らえられて殺され、劉氏の一族も皆殺しにされた。
即位まで
昭武帝劉聡の子で、310年に劉聡が即位すると河内王に封じられた。のちに丞相・領大将軍・録尚書事となって晋王に進み、さらに相国として百官を束ねた。晋書の載記は、宰相となってから威福をほしいままにし、忠賢を遠ざけて奸佞を近づけ、宮室の造営を好んだと描く。皇太弟の劉乂の側近は、相国の権勢が東宮をしのいでいると劉乂に説いた。劉粲は人を使って劉乂に甲を着けさせ、それを謀反の備えとして告げさせたので、劉乂は廃され、劉粲は靳準に劉乂を殺させて皇太子に立てられた。318年に劉聡が没すると、劉粲が位を継ぎ、大赦して漢昌と改元した。劉聡の皇后の靳氏を皇太后とし、自分の妻の靳氏を皇后に立てた。
治世と最期
即位すると劉聡の若い皇后たちと昼夜を問わず淫らに交わり、喪に心を向けなかった。靳準は諸公が伊尹・霍光のような廃立を企てていると告げ、劉粲が取り合わないと劉聡の后妃の二人の靳氏にも同じことを言わせた。劉粲は太宰の劉景ら一族の重臣を誅し、朱紀らは長安へ逃れた。その後、石勒を討とうと兵を閲したが、酒色にふけって軍国の事はすべて靳準が決めた。同じ年、靳準は兵を率いて宮中に入り、甲士に劉粲を捕らえさせて罪を数え、殺した。劉氏の男女は老いも若きも東市で斬られ、劉淵と劉聡の墓は暴かれ、宗廟は焼かれた。靳準が名乗った称号を晋書の載記は大将軍・漢天王とし、晋書の元帝紀と魏書は漢王とする。隠帝という諡は資治通鑑に見え、晋書の載記には無い。
在位中の出来事(4件)
被反乱318年9月靳準の乱
改元日付不詳元号を「漢昌」とする
大赦日付不詳
立后日付不詳即位に伴い妻の靳氏を皇后として正式に冊立した。