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前趙(ぜんちょう)・漢趙(かんちょう)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第4代分裂期の王朝

隠帝(いんてい)劉粲(りゅうさん)

在位 318年〜318年(30日)

姓劉(りゅう)諱粲(さん)字士光(しこう)

隠帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 318年〜318年
在位 30日長さは365名中355位タイ
没年
不詳
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
  • 昭武帝前趙・漢趙隠帝は昭武帝の子
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第二 劉聰(劉粲)
即位経路
晉書 載記第二 劉聰(劉粲)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

父の劉聡(りゅうそう)の跡を継いだ漢(前趙(ぜんちょう))の皇帝で、即位したその年に外戚(がいせき)の靳(きん)準に捕らえられて殺され、劉氏(りゅうし)の一族も皆殺しにされた。

即位まで

昭武帝(しょうぶてい)劉聡(りゅうそう)の子で、310年に劉聡(りゅうそう)が即位すると河内(かだい)王に封じられた。のちに丞相(じょうしょう)・領大将軍(だいしょうぐん)・録尚書事(ろくしょうしょじ)となって晋王(しんおう)に進み、さらに相国(しょうこく)として百官を束ねた。晋書(しんじょ)の載記(さいき)は、宰相となってから威福をほしいままにし、忠賢(ちゅうけん)を遠ざけて奸佞(かんねい)を近づけ、宮室の造営を好んだと描く。皇太弟(こうたいてい)の劉(りゅう)乂(がい)の側近は、相国(しょうこく)の権勢が東宮(とうぐう)をしのいでいると劉(りゅう)乂(がい)に説いた。劉粲(りゅうさん)は人を使って劉(りゅう)乂(がい)に甲を着けさせ、それを謀反の備えとして告げさせたので、劉(りゅう)乂(がい)は廃され、劉粲(りゅうさん)は靳(きん)準に劉(りゅう)乂(がい)を殺させて皇太子に立てられた。318年に劉聡(りゅうそう)が没すると、劉粲(りゅうさん)が位を継ぎ、大赦して漢昌(かんしょう)と改元(かいげん)した。劉聡(りゅうそう)の皇后の靳氏(きんし)を皇太后とし、自分の妻の靳氏(きんし)を皇后に立てた。

治世と最期

即位すると劉聡(りゅうそう)の若い皇后たちと昼夜を問わず淫らに交わり、喪に心を向けなかった。靳(きん)準は諸公が伊尹(いいん)・霍光(かくこう)のような廃立を企てていると告げ、劉粲(りゅうさん)が取り合わないと劉聡(りゅうそう)の后妃の二人の靳氏(きんし)にも同じことを言わせた。劉粲(りゅうさん)は太宰(たいさい)の劉(りゅう)景ら一族の重臣を誅(ちゅう)し、朱紀らは長安(ちょうあん)へ逃れた。その後、石勒(せきろく)を討とうと兵を閲したが、酒色にふけって軍国の事はすべて靳(きん)準が決めた。同じ年、靳(きん)準は兵を率いて宮中に入り、甲士(こうし)に劉粲(りゅうさん)を捕らえさせて罪を数え、殺した。劉氏(りゅうし)の男女は老いも若きも東市(とうし)で斬られ、劉淵(りゅうえん)と劉聡(りゅうそう)の墓は暴かれ、宗廟(そうびょう)は焼かれた。靳(きん)準が名乗った称号を晋書(しんじょ)の載記(さいき)は大将軍(だいしょうぐん)・漢天王(かんてんおう)とし、晋書(しんじょ)の元帝(げんてい)紀(き)と魏書(ぎしょ)は漢王とする。隠帝(いんてい)という諡(おくりな)は資治通鑑(しじつがん)に見え、晋書(しんじょ)の載記(さいき)には無い。

在位中の出来事(4件)

被反乱318年9月靳準の乱
改元日付不詳元号を「漢昌」とする
大赦日付不詳
立后日付不詳即位に伴い妻の靳氏を皇后として正式に冊立した。

前趙・漢趙の歴代皇帝

5名の一覧

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