
宋・南北朝第3代分裂期の王朝
文帝劉義隆
在位 424年9月17日〜453年3月16日(28年187日)
文帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋書/卷99 列伝 二凶(劉劭)/宋書/卷05 本紀第五 文帝
- 即位経路
- 宋書/卷05 本紀第五 文帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
兄の少帝が廃されたのちに迎えられて即位した劉宋の皇帝で、後世は元嘉の年号を盛世の称として引いたが、北伐はいずれも実らず、最後は太子の劉劭に殺された。
即位まで
武帝の第三子で、小字は車児といい、407年に京口で生まれた。424年、徐羨之・傅亮らが兄の少帝を廃し、使者を送って金昌亭で殺させた。資治通鑑によれば、程道恵は劉義恭を立てるよう勧めたが、徐羨之らは宜都王の声望と符瑞を理由に、皇太后の令の形で宜都王に大統を継がせた。南史の文帝紀は、徐羨之らが少帝を殺していたので、迎えが来たことに人々が疑い懼れたと記す。資治通鑑は、江陵で傅亮が玉璽を進めたとき宜都王は18歳だったとする。同じ年、建康に着いた翌日に初寧陵に詣で、中堂で即位した。
治世と最期
425年に徐羨之と傅亮が政を返上して、初めて自ら政を執った。426年には徐羨之と傅亮を誅し、荊州刺史の謝晦を討つために自ら六軍を率いて西へ向かい、到彦之と檀道済が謝晦を破ったのち、謝晦は捕らえられて誅された。430年に到彦之を北伐に送ったが、到彦之は同じ年のうちに滑台から逃げ帰った。450年には王玄謨を送ったが滑台を落とせず、451年の初めには魏の太武帝の大軍が瓜歩まで迫った。452年にも蕭思話に北伐させたが、碻磝を抜けずに退いた。453年、太子の劉劭が兵を率いて宮中に入り、張超之が文帝を殺した。資治通鑑は、文帝が几で防いだものの5本の指を落とされたと記す。宋書の文帝紀は崩御の場所と年齢だけを書いて劉劭の名を出さず、場所を含章殿とするが、南史は合殿とする。初めに付けられた諡と廟号は、孝武帝の即位後に改められた。宋書の史臣は、後世が元嘉を盛世の称とすると述べる一方、遠くから兵略を指図して敗北を招いたと批判する。