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王世充の肖像

鄭(てい)(隋末(ずいまつ))第1代分裂期の王朝

王世充(おうせいじゅう)

在位 619年5月25日〜621年6月4日(2年11日)

姓王(おう)諱世充(せいじゅう)字行満(こうまん)

王世充の人物データ

生年
不詳
在位
  • 619年5月25日〜621年6月4日
在位 2年11日長さは365名中259位
没年
621年
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
受禅(易姓)
先代
  • 恭帝侗隋王世充と恭帝侗に血縁はない
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
新唐書 王世充伝/旧唐書 巻五十四(王世充・竇建徳伝)/旧唐書 高祖本紀 武徳四年七月条
即位経路
旧唐書 巻五十四(王世充・竇建徳伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

隋(ずい)の末に洛陽(らくよう)で楊侗(ようとう)を擁しながら位を奪って鄭(てい)を建て、唐に降ったのち仇人(きゅうじん)に殺された人物である。

即位まで

本姓は支で西域の胡人(こじん)の出であり、父の収が、王氏(おうし)に再嫁した母に従ったことから王姓を名乗った。煬帝(ようだい)が殺されて洛陽(らくよう)で越王(えつおう)楊侗(ようとう)(恭帝侗(きょうていとう))が立てられると、吏部尚書・鄭国公(ていこくこう)とされた。元文都(げんぶんと)らが自分を殺そうとしていると知ると、宮城(きゅうじょう)を兵で囲んで元文都(げんぶんと)・盧(ろ)楚(そ)を殺し、朝政を独り占めにした。周公(しゅうこう)の夢を見たと称して兵を奮い立たせ、李密(りみつ)の軍を破った。619年に鄭王(ていおう)となって九錫(きゅうしゃく)を受け、段達(だんたつ)らが禅譲(ぜんじょう)を迫ったが、楊侗(ようとう)は怒って拒んだ。同じ年、楊侗(ようとう)の詔を偽って位を譲らせ、兄の世惲(せいうん)に含涼殿(がんりょうでん)で楊侗(ようとう)を廃させて即位し、開明と建元(けんげん)して国号を鄭(てい)とした。

治世と最期

即位から間もなく楊侗(ようとう)を毒殺し、恭皇帝(きょうこうてい)と諡(おくりな)した。毒を届けた者を旧唐書(くとうじょ)の伝は王行本(こうほん)とし、資治通鑑(しじつがん)は王仁則(じんそく)と家奴の梁(りょう)百年としたうえで、毒で死にきれず帛(はく)で絞め殺したと書く。620年には逃亡者の一族を連座(れんざ)させる刑を敷いて宮城(きゅうじょう)を大獄とし、城中は人が人を食うほどの飢えになった。621年、秦王(しんおう)李(り)世民(せいみん)が竇建徳(とうけんとく)を捕らえて城下に示すと、襄陽(じょうよう)へ逃れる策に応じる将がおらず、将吏(しょうり)を率いて降った。長安(ちょうあん)で高祖(こうそ)に罪を数えられると、秦王(しんおう)が死を免じると約束したと答え、高祖(こうそ)は赦した。兄や妻子とともに蜀(しょく)へ移されることになったが、出発の前に仇人(きゅうじん)の独孤(どっこ)修徳(しゅうとく)に殺された。新唐書(しんとうじょ)によれば、修徳の父独孤(どっこ)機は王世充(おうせいじゅう)に殺されており、高祖(こうそ)は修徳を免官しただけだった。

在位中の出来事(5件)

改元619年6月元号を「開明」とする
大赦619年6月皇泰二年(619年)四月乙巳、王世充が法駕を備え洛陽宮に入り皇帝に即位。
親征619年11月滑州・黎陽(東方への領土拡大)
親征620年9月〜621年6月秦王李世民(唐軍、洛陽包囲)
大赦日付不詳

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