
唐第2代統一王朝
太宗李世民
在位 626年9月3日〜649年7月10日(22年316日)
太宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻二(太宗上)/旧唐書 巻八十四(郝処俊伝)/旧唐書 憲宗紀下(元和五年八月)
- 即位経路
- 旧唐書 巻一(高祖、武徳九年条)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
玄武門の変で兄と弟を討って位に就き、突厥の頡利可汗を捕らえた唐の第2代皇帝である。
即位まで
高祖の第二子で、旧唐書は、世を救い民を安んじる相があると書生に言われたことから世民と名づけられたと記す。隋末の挙兵では、霍邑攻めで太原へ引き返そうとした高祖を泣いて諫め、のちに虎牢で竇建徳を捕らえて王世充も降した。626年、兄の皇太子建成と弟の斉王元吉が自分を殺そうとしていたとして玄武門で二人を討ち、皇太子に立てられた。その年のうちに高祖から位を譲られて即位した。
治世と最期
即位の直後に突厥の頡利可汗が渭水の便橋まで迫った。太宗は6騎で川岸に出て頡利と言葉を交わし、続いて着いた唐軍の盛んなさまに頡利が恐れて和を請うたので、盟を結んで退かせた。630年には李靖が突厥を破り、頡利可汗が捕らえられて長安に送られた。645年には自ら高句麗に遠征して駐蹕山で援軍を破ったが、安市城を落とせずに引き返した。648年、方士の那羅邇娑婆に延年の薬を造らせたと、旧唐書の本紀は一句だけ書く。649年に含風殿で没し、旧唐書の本紀は崩御とだけ記す。新唐書は亡くなる2か月ほど前から病んでいたと書き、没年齢を旧唐書より1歳多くする。同じ旧唐書の郝処俊伝では、処俊が、先帝は婆羅門僧の長生薬を飲んだが効き目がなく、臨終には名医も手の施しようがなかったと述べている。憲宗紀では宰相の李藩が、太宗は胡僧の長生薬を飲んで急な病になり救われなかったと述べ、このサイトが死因を諸説ありとしているのはこの二つの記述による。資治通鑑は最期を下痢の悪化として書き、方士の薬は結局できなかったとして、薬はできて飲んだという旧唐書の天竺伝と食い違う。
在位中の出来事(17件)
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唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑
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