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太宗の肖像

唐(とう)第2代統一王朝

太宗(たいそう)李(り)世民(せいみん)

在位 626年9月3日〜649年7月10日(22年316日)

姓李(り)諱世民(せいみん)

太宗の人物データ

生年
599年1月23日
在位
  • 626年9月3日〜649年7月10日
在位 22年316日29歳で即位(数え年)・長さは365名中48位
没年
649年7月10日52歳(数え年)267名中長寿順73位タイ
死因
諸説あり365名中15名
即位経路
内禅
先代
  • 高祖唐太宗は高祖の子
次代
  • 高宗唐高宗は太宗の子
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻二(太宗上)/旧唐書 巻八十四(郝処俊伝)/旧唐書 憲宗紀下(元和五年八月)
即位経路
旧唐書 巻一(高祖、武徳九年条)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

玄武門(げんぶもん)の変で兄と弟を討って位に就き、突厥(とっけつ)の頡利可汗(けつりかがん)を捕らえた唐の第2代皇帝(こうてい)である。

即位まで

高祖(こうそ)の第二子で、旧唐書(くとうじょ)は、世を救い民を安んじる相があると書生に言われたことから世民(せいみん)と名づけられたと記す。隋末(ずいまつ)の挙兵では、霍邑(かくゆう)攻めで太原(たいげん)へ引き返そうとした高祖(こうそ)を泣いて諫(いさ)め、のちに虎牢(ころう)で竇建徳(とうけんとく)を捕らえて王世充(おうせいじゅう)も降した。626年、兄の皇太子建成と弟の斉王(せいおう)元吉(げんきつ)が自分を殺そうとしていたとして玄武門(げんぶもん)で二人を討ち、皇太子に立てられた。その年のうちに高祖(こうそ)から位を譲られて即位した。

治世と最期

即位の直後に突厥(とっけつ)の頡利可汗(けつりかがん)が渭水(いすい)の便橋(べんきょう)まで迫った。太宗(たいそう)は6騎で川岸に出て頡利(けつり)と言葉を交わし、続いて着いた唐軍の盛んなさまに頡利(けつり)が恐れて和を請うたので、盟を結んで退かせた。630年には李靖(りせい)が突厥(とっけつ)を破り、頡利可汗(けつりかがん)が捕らえられて長安(ちょうあん)に送られた。645年には自ら高句麗(こうくり)に遠征して駐蹕山(ちゅうひつさん)で援軍を破ったが、安市城(あんしじょう)を落とせずに引き返した。648年、方士(ほうし)の那羅邇娑婆(ならじしゃば)に延年の薬を造らせたと、旧唐書(くとうじょ)の本紀(ほんぎ)は一句だけ書く。649年に含風殿(がんぷうでん)で没し、旧唐書(くとうじょ)の本紀(ほんぎ)は崩御(ほうぎょ)とだけ記す。新唐書(しんとうじょ)は亡くなる2か月ほど前から病んでいたと書き、没年齢を旧唐書(くとうじょ)より1歳多くする。同じ旧唐書(くとうじょ)の郝(かく)処俊(しょしゅん)伝では、処俊(しょしゅん)が、先帝は婆羅門(ばらもん)僧の長生(ちょうせい)薬を飲んだが効き目がなく、臨終には名医も手の施しようがなかったと述べている。憲宗(けんそう)紀(き)では宰相の李(り)藩が、太宗(たいそう)は胡僧(こそう)の長生(ちょうせい)薬を飲んで急な病になり救われなかったと述べ、このサイトが死因を諸説ありとしているのはこの二つの記述による。資治通鑑(しじつがん)は最期を下痢の悪化として書き、方士(ほうし)の薬は結局できなかったとして、薬はできて飲んだという旧唐書(くとうじょ)の天竺(てんじく)伝と食い違う。

在位中の出来事(17件)

大赦626年9月3日
立后626年9月16日
改元627年元号を「貞観」とする
被反乱627年泾州の反乱
大赦628年
大赦630年
被反乱634年東西五洞の反獠
大赦635年
被反乱635年洮州羌の反乱
被反乱638年夜郎の反獠
残り7件を表示
被反乱639年壁州の山獠反乱
大赦643年
皇太子廃立643年
被反乱643年斉州の反乱
親征645年高句麗
被反乱648年眉・邛・雅三州の反獠
大赦649年5月3日

唐の歴代皇帝

24名の一覧

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