
北周(南北朝)第3代分裂期の王朝
武帝宇文邕
在位 560年5月31日〜578年6月21日(18年25日)
姓宇文諱邕字禰羅突廟号高祖
武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 周書 巻6 武帝紀下
- 即位経路
- 周書 巻5 武帝紀上
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
北周の皇帝で、実権を握っていた宇文護を誅して親政を始め、仏教と道教を断ち、北斉を滅ぼした。周書の論は、宇文護の専権のあいだは才を隠して深浅を測らせなかったと評する。
即位まで
宇文泰の第四子で、母は叱奴太后である。560年、兄の明帝が食事で毒に当たって危篤となり、自分の子は幼いとして遺詔で弟の武帝を後継に指名した。周書の明帝紀は毒を盛った者を記さないが、同じ周書の宇文護伝と資治通鑑は、宇文護が膳部の李安に盛らせたとする。武帝は固辞したのち、百官の勧めを受けて即位した。
治世と最期
572年、武帝は宇文護を含仁殿へ導き、酒誥を渡して太后の前で読ませ、その背後から玉珽で撃ち倒し、隠れていた弟の宇文直が斬った。一党を殺す際、武帝は明帝の死は李安の仕業だと語った。誅殺の日は本紀と宇文護伝とで4日ずれる。574年、仏教と道教の二教を断ち、経典と像を毀ち、僧尼と道士を俗に返した。同じ年、宇文直が京師で兵を挙げたが敗れ、庶人とされた。575年、自ら北斉を攻めて河陰大城を抜いたが、病にかかって引き返した。577年の初め、晋州城下の決戦で北斉軍を大破し、続いて鄴を平らげ、北斉の後主と太子は青州で捕らえられた。周書は同じ年に後主を誅したとだけ記すが、北斉書は、謀反を誣いられて578年に死を賜ったとする。578年、突厥を討つため自ら北へ向かったが、雲陽宮で病に倒れて諸軍を止め、都へ戻る途中の夜に乗輿の中で崩じた。周書・北史・資治通鑑には、病死のほかの死因を伝える記述が無い。
在位中の出来事(23件)
大赦560年5月31日
改元561年元号を「保定」とする
大赦562年
大赦564年
改元566年元号を「天和」とする
大赦566年
被反乱566年信州蛮の反乱(第一次)
大赦568年
立后568年
被反乱571年信州蛮の反乱(第二次)
残り13件を表示
改元572年元号を「建徳」とする
大赦572年
大赦572年
大赦574年
被反乱574年衛王直(宇文直)の反乱
被反乱574年始州民王鞅の反乱
親征575年北斉(高緯政権・河陰)
親征576年〜577年北斉(高緯・高延宗・高恒政権)
大赦577年
被反乱577年稽胡の反乱
被反乱578年1月東寿陽の民の反乱
被反乱578年1月北営州刺史高宝寧の反乱
改元578年4月17日元号を「宣政」とする
北周の歴代皇帝
4名の一覧- 第2代明帝559–560年暗殺
- 第3代武帝560–578年病死
- 第4代宣帝578–580年病死
- 第5代静帝579–581年暗殺