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武帝の肖像

北周(ほくしゅう)(南北朝(なんほくちょう))第3代分裂期の王朝

武帝(ぶてい)宇文(うぶん)邕(よう)

在位 560年5月31日〜578年6月21日(18年25日)

姓宇文(うぶん)諱邕(よう)字禰羅突(でいらとつ)廟号高祖(こうそ)

武帝の人物データ

生年
543年
在位
  • 560年5月31日〜578年6月21日
在位 18年25日長さは365名中64位
没年
578年6月21日36歳(数え年)267名中長寿順151位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 明帝北周武帝は明帝の弟
次代
  • 宣帝北周宣帝は武帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
周書 巻6 武帝紀下
即位経路
周書 巻5 武帝紀上

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

北周(ほくしゅう)の皇帝で、実権を握っていた宇文護(うぶんご)を誅(ちゅう)して親政を始め、仏教と道教(どうきょう)を断ち、北斉(ほくせい)を滅ぼした。周書(しゅうしょ)の論は、宇文護(うぶんご)の専権のあいだは才を隠して深浅を測らせなかったと評する。

即位まで

宇文泰(うぶんたい)の第四子で、母は叱奴(しつど)太后(たいこう)である。560年、兄の明帝(めいてい)が食事で毒に当たって危篤となり、自分の子は幼いとして遺詔(いしょう)で弟の武帝(ぶてい)を後継に指名した。周書(しゅうしょ)の明帝(めいてい)紀(き)は毒を盛った者を記さないが、同じ周書(しゅうしょ)の宇文護(うぶんご)伝と資治通鑑(しじつがん)は、宇文護(うぶんご)が膳部(ぜんぶ)の李安(りあん)に盛らせたとする。武帝(ぶてい)は固辞したのち、百官の勧めを受けて即位した。

治世と最期

572年、武帝(ぶてい)は宇文護(うぶんご)を含仁殿(がんじんでん)へ導き、酒誥(しゅこう)を渡して太后の前で読ませ、その背後から玉珽(ぎょくてい)で撃ち倒し、隠れていた弟の宇文(うぶん)直が斬った。一党を殺す際、武帝(ぶてい)は明帝(めいてい)の死は李安(りあん)の仕業だと語った。誅殺(ちゅうさつ)の日は本紀(ほんぎ)と宇文護(うぶんご)伝とで4日ずれる。574年、仏教と道教(どうきょう)の二教(にきょう)を断ち、経典と像を毀ち、僧尼と道士を俗に返した。同じ年、宇文(うぶん)直が京師で兵を挙げたが敗れ、庶人(しょじん)とされた。575年、自ら北斉(ほくせい)を攻めて河陰大城(かいんだいじょう)を抜いたが、病にかかって引き返した。577年の初め、晋州(しんしゅう)城下の決戦で北斉(ほくせい)軍を大破し、続いて鄴(ぎょう)を平らげ、北斉(ほくせい)の後主(こうしゅ)と太子は青州(せいしゅう)で捕らえられた。周書(しゅうしょ)は同じ年に後主(こうしゅ)を誅(ちゅう)したとだけ記すが、北斉(ほくせい)書は、謀反を誣(し)いられて578年に死を賜ったとする。578年、突厥(とっけつ)を討つため自ら北へ向かったが、雲陽宮(うんようきゅう)で病に倒れて諸軍を止め、都へ戻る途中の夜に乗輿(じょうよ)の中で崩じた。周書(しゅうしょ)・北史(ほくし)・資治通鑑(しじつがん)には、病死のほかの死因を伝える記述が無い。

在位中の出来事(23件)

大赦560年5月31日
改元561年元号を「保定」とする
大赦562年
大赦564年
改元566年元号を「天和」とする
大赦566年
被反乱566年信州蛮の反乱(第一次)
大赦568年
立后568年
被反乱571年信州蛮の反乱(第二次)
残り13件を表示
改元572年元号を「建徳」とする
大赦572年
大赦572年
大赦574年
被反乱574年衛王直(宇文直)の反乱
被反乱574年始州民王鞅の反乱
親征575年北斉(高緯政権・河陰)
親征576年〜577年北斉(高緯・高延宗・高恒政権)
大赦577年
被反乱577年稽胡の反乱
被反乱578年1月東寿陽の民の反乱
被反乱578年1月北営州刺史高宝寧の反乱
改元578年4月17日元号を「宣政」とする

北周の歴代皇帝

4名の一覧

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