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北周(ほくしゅう)(南北朝(なんほくちょう))第4代分裂期の王朝

宣帝(せんてい)宇文(うぶん)贇(いん)

在位 578年6月22日〜580年6月22日(2年1日)

姓宇文(うぶん)諱贇(いん)字乾伯(けんぱく)

宣帝の人物データ

生年
559年
在位
  • 578年6月22日〜580年6月22日
在位 2年1日長さは365名中260位
没年
580年6月22日22歳(数え年)267名中長寿順224位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 武帝北周宣帝は武帝の子
次代
  • 静帝北周静帝は宣帝の子
目立つ記録
  • 立后5回(202名中2位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
周書 巻7 宣帝紀
即位経路
周書 巻7 宣帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

宇文(うぶん)贇(いん)は北周(ほくしゅう)の武帝(ぶてい)の長子で、578年に父の死を受けて即位し、即位の直後に叔父の斉王(せいおう)宇文憲(うぶんけん)を殺した。翌579年には位を皇太子の宇文(うぶん)衍(えん)に譲って天元皇帝と称し、580年に病で世を去ると、詔を偽った側近によって楊堅(ようけん)が政を輔(たす)けることになった。

即位まで

宇文(うぶん)贇(いん)は母を李(り)太后(たいこう)とし、559年に同州(どうしゅう)で生まれた。572年、武帝(ぶてい)は自ら廟(びょう)に告げて宇文(うぶん)贇(いん)を皇太子に立てた。武帝(ぶてい)は宇文(うぶん)贇(いん)が後継に堪えないことを案じて厳しく扱い、過ちのたびに打ち、東宮(とうぐう)の官に言動を記録させたので、宇文(うぶん)贇(いん)は感情を偽って取り繕ったという。578年、武帝(ぶてい)が崩じた翌日に宇文(うぶん)贇(いん)は皇帝の位に即いた。

治世と最期

本紀(ほんぎ)は即位まもなく宇文憲(うぶんけん)を誅(ちゅう)したとだけ記して理由を書かないが、宇文憲(うぶんけん)伝は、宣帝(せんてい)が叔父の声望を忌んで謀反を告発させ、殿中で捕らえて縊(くび)り殺させたと記す。宇文(うぶん)孝伯(こうはく)は先帝の遺詔(いしょう)を盾にこれに加担することを拒み、宣帝(せんてい)は于(う)智(ち)・鄭訳(ていやく)らと謀ったと宇文(うぶん)孝伯(こうはく)伝は記す。太子のころに打たれた恨みから、宣帝(せんてい)が杖の痕は誰のせいかと鄭訳(ていやく)に問い、王軌(おうき)と宇文(うぶん)孝伯(こうはく)の告げ口のせいだと答えられると、宣帝(せんてい)は王軌(おうき)を殺し、宇文(うぶん)孝伯(こうはく)にも自尽を命じた。579年、宣帝(せんてい)は位を宇文(うぶん)衍(えん)に伝えて大象(たいしょう)と改元(かいげん)し、自らは天元皇帝と称して居所を天台(てんだい)と呼んだ。山東(さんとう)諸州の兵を発して洛陽宮(らくようきゅう)を造営させ、四万人を使役し続けた。580年には四人の皇后にそれぞれ天元大皇后(てんげんだいこうごう)などの号を与えた。一族の宇文(うぶん)温の妻の尉遅氏(うっちし)を犯したため、宇文(うぶん)温の父の宇文(うぶん)亮(りょう)は誅(ちゅう)されるのを恐れて反し、韋孝寛(いこうかん)に捕らえられて殺された。周書(しゅうしょ)の宣帝(せんてい)紀(き)によれば、宣帝(せんてい)は行幸(ぎょうこう)先で病み、危篤になると劉昉(りゅうぼう)と鄭訳(ていやく)が詔を偽って楊堅(ようけん)に政を輔(たす)けさせ、その日に崩じた。隋書(ずいしょ)の高祖(こうそ)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)は崩じた日を発病の日に置いて周書(しゅうしょ)より早く、喪をしばらく秘したとし、考異(こうい)はそちらを採った理由を述べる。周書(しゅうしょ)・北史(ほくし)・隋書(ずいしょ)・資治通鑑(しじつがん)のいずれも死因を病とだけ記す。

在位中の出来事(12件)

被反乱578年7月卢昌期の范陽反乱
被反乱578年10月汾州稽胡(刘受逻千)の反乱
被反乱580年4月杞国公・宇文亮の反乱
改元日付不詳元号を「大成」とする
改元日付不詳元号を「大象」とする
大赦日付不詳
大赦日付不詳
立后日付不詳
立后日付不詳
立后日付不詳
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立后日付不詳
立后日付不詳

北周の歴代皇帝

4名の一覧

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