北周(南北朝)第2代分裂期の王朝
明帝宇文毓
在位 559年10月1日〜560年5月30日(242日)
明帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 資治通鑑 巻168/周書 巻4 明帝紀
- 即位経路
- 周書 巻4 明帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
宇文毓は北周の基を開いた宇文泰の長子で、557年に宇文護が弟の孝閔帝を廃したのち、天王として迎えられた。559年に天王の称号を皇帝に改めたが、翌560年、宇文護の命で毒を盛られて世を去り、遺詔で弟の宇文邕を後継に指名した。
即位まで
宇文毓は母を姚夫人とし、534年に統万城で生まれ、それにちなんで統万突という小名を持った。諸子の最年長だったが、資治通鑑によれば宇文泰は嫡子を立てたいと考え、元皇后の生んだ第三子の宇文覚が世子とされた。宇文覚が孝閔帝として即位すると、宇文毓は岐州刺史となり、善政を敷いて民に慕われた。宇文護は孝閔帝を廃するにあたり、年も徳も兼ね備えた寧都公を立てたいと群臣に諮り、孝閔帝を幽閉して宇文毓を岐州から迎え、ひと月余りのちに孝閔帝を弑した。宇文毓は勧進を固辞したのち、その日のうちに天王の位に即いて大赦した。
治世と最期
559年、宇文護が上表して政権を返し、宇文毓は初めて万機を親覧したが、軍事はなお宇文護が総べた。同じ年、天王の称号を皇帝に改めて宇文泰を帝に追尊し、大赦して武成と改元した。文学のある公卿ら八十余人を麟趾殿に集めて経史を校訂させ、上古から魏の末までの世譜を編ませた。周書の宇文護伝によれば、聡明な宇文毓を憚った宇文護は膳部の李安に命じて食事に毒を加えさせた。明帝紀の本文は食事で毒に遭ったとだけ記して盛った者の名を書かず、資治通鑑は毒を入れたのを糖䭔という菓子とし、李安の官も周書と違えて記す。宇文毓は遺詔で、子が幼いとして弟の魯国公宇文邕に後を託し、葬儀を倹約にして不毛の地に葬るよう命じた。遺詔の中で宇文毓は、自らの在位を天王に即いた557年から数えている。のちに宇文護が誅されたとき、助命を求められた李安について、宇文邕は兄の死は李安の仕業だと答えた。
在位中の出来事(3件)
北周の歴代皇帝
4名の一覧- 第2代明帝559–560年暗殺
- 第3代武帝560–578年病死
- 第4代宣帝578–580年病死
- 第5代静帝579–581年暗殺