
周(唐)第1代統一王朝
武則天武曌
在位 690年10月16日〜705年2月21日(14年132日)
姓武諱曌諡号則天大聖皇后別称則天大聖皇帝別名則天武后
武則天の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻六(則天皇后、神龍元年十一月条)
- 即位経路
- 旧唐書 巻六(則天皇后)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
武則天は唐の高宗の皇后から政を執り、690年に国号を周と改めて自ら皇帝となった。
即位まで
并州文水の人で、十四歳で太宗の才人となり、太宗の死後に尼となっていたところを高宗に再び召されて昭儀となった。655年、高宗は王皇后を廃して武則天を皇后に立てた。高宗が風疾に苦しむようになると上奏の決裁を任され、二聖と並び称された。683年に高宗が崩じて中宗が即位すると、皇太后としてその日のうちに臨朝称制した。翌年には中宗を廃して睿宗を立て、なお称制を続けた。688年、武承嗣が偽造した瑞石を受けて聖母神皇の号を加え、挙兵した越王らを鎮めると、唐の宗室の諸王は次々に誅された。資治通鑑によれば、690年、傅遊芸が国号を周に改めるよう請い、六万余人が同じく上表し、睿宗自身も武の姓を賜るよう上表したのち、武則天はこれを許した。唐の命を革めて国号を周とし、三日後に聖神皇帝の号を加えて、睿宗を皇嗣に降した。
治世と最期
705年、病床の武則天のもとで、張柬之や桓彦範らが羽林兵を率いて寵臣の張易之・張昌宗を斬った。桓彦範に位を譲るよう迫られた武則天は、新唐書の武后伝によればそのまま横になってそれ以上は何も言わなかったが、資治通鑑はその後も李湛や崔玄暐に言葉をかけたと記す。まもなく皇太子の中宗に位を伝えたが、その日を旧唐書の則天紀と中宗紀、資治通鑑とで一日違えている。同じ年、遺制で帝号を去り則天大聖皇后と称させて、上陽宮で崩じた。享年を旧唐書は八十三、資治通鑑は八十二、新唐書の武后伝は八十一とし、資治通鑑考異は八十三を採ると記している。
在位中の出来事(33件)
改元690年10月16日元号を「天授」とする
大赦690年10月16日天授元年九月九日壬午、国号を周と改め称帝すると同時に大赦天下・改元天授。
改元692年元号を「如意」とする
改元692年元号を「長寿」とする
大赦692年天授三年四月、大赦天下・改元如意(禁断天下屠殺も合わせて発布)。
大赦692年如意元年九月、大赦天下・改元長寿。
大赦693年長寿二年九月、金輪聖神皇帝号加上と同時に大赦天下(改元なし)。
改元694年元号を「延載」とする
改元694年元号を「証聖」とする
大赦694年長寿三年五月、越古金輪聖神皇帝号加上・大赦天下・改元延載。
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大赦694年証聖元年正月、慈氏越古金輪聖神皇帝号加上・大赦天下・改元証聖。
改元695年元号を「天冊万歳」とする
大赦695年証聖元年九月、南郊親祀・天冊金輪聖神皇帝号加上・大赦天下(大辟罪以下、十悪の常赦所不原者も含め赦除)・改元天冊万歳。
改元696年元号を「万歳登封」とする
改元696年元号を「万歳通天」とする
大赦696年万歳登封元年腊月(十二月)甲申、嵩岳封禅と同時に大赦天下・改元万歳登封。
大赦696年万歳登封二年四月、明堂親享と同時に大赦天下・改元万歳通天。
被反乱696年〜697年営州契丹の反乱(李尽忠・孫万栄の乱)
改元697年元号を「神功」とする
改元697年元号を「聖暦」とする
大赦697年万歳通天二年九月、契丹(李尽滅等)平定を機に大赦天下・改元神功。
大赦697年神功二年正月、明堂親享と同時に大赦天下・改元聖暦。
大赦698年聖暦元年九月、廬陵王哲(後の中宗)の皇太子復位と同時に大赦天下(改元なし)。
改元700年元号を「久視」とする
大赦700年聖暦三年五月癸丑、病気平癒を機に大赦天下・改元久視(金輪等の尊号は停止)。
大赦700年久視元年十月甲寅、旧暦(夏正)への復旧と同時に大赦天下(改元なし)。
改元701年元号を「大足」とする
改元701年元号を「長安」とする
大赦701年大足元年十月、京師(長安)行幸と同時に大赦天下・改元長安。
大赦702年長安二年十一月戊子、南郊親祀と同時に大赦天下(改元なし)。
改元705年2月元号を「神龍」とする
大赦705年2月長安五年(神龍元年)正月、大赦・改元神龍。
被反乱705年2月神龍政変