
唐第16代統一王朝
敬宗李湛
在位 824年2月26日〜827年1月9日(2年318日)
姓李諱湛
敬宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 本紀第十七上(敬宗)/資治通鑑 巻243(唐紀59・宝暦二年)
- 即位経路
- 旧唐書 本紀第十七上(敬宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
敬宗(李湛)は唐の穆宗の長子で、十代で即位すると撃毬や夜の狩りにふけり、宦官と撃毬の軍将らに殺された。
即位まで
母は王氏で、821年に景王に封じられ、823年に皇太子に立てられた。824年に穆宗が崩じると、旧唐書によればその翌日に柩の前で即位した。新唐書の本紀は、太極殿で即位した日を、旧唐書の即位日の三日後とする。
治世と最期
即位の年のうちから中和殿などで撃毬を行い、群臣が参内しても日が高くなるまで座に着かなかったので、左拾遺の劉栖楚は頭を打ちつけ血を流して諫めた。同じ年、張韶ら百余人が宮中に入り込んで御座に上る事件が起こり、李湛は左神策軍へ避難した。道士に長生の道を説かれて各地へ薬を採りに使者を出し、土木を好んで造営を一年じゅう続けさせた。驢鞠や角抵を観ては、頭を砕き腕を折る者が出るまで夜更けまで続けさせ、深夜に自ら狐狸を捕らえるのを好んだ。資治通鑑によれば、宦官は小さな過ちでも鞭打たれ、皆が恨み恐れていた。827年のある夜、狩りから戻った李湛は宦官の劉克明らと撃毬し、軍将の蘇佐明ら二十八人と酒を飲んで更衣に立ったところ、灯が消えて殺された。旧唐書の敬宗紀は劉克明らが共謀したとだけ書き、同じ旧唐書の文宗紀と資治通鑑は手を下したのを蘇佐明らとし、新唐書の宦者伝は劉克明が蘇佐明らとともに弑したとする。劉克明らは絳王に軍国の事を任せたが、翌日、王守澄らが江王を奉じて立て、劉克明を誅して絳王を殺した。旧唐書の史臣は、穆宗の驕った性を継いだのだと評している。
在位中の出来事(6件)
大赦824年4月5日即位に伴う大赦。
被反乱824年5月19日張韶の乱(右銀台門襲撃・宮中侵入事件)
改元825年元号を「宝暦」とする
大赦825年改元と同時の大赦。
大赦825年尊号(文武大聖廣孝皇帝)奉上に伴う大赦。
被反乱825年徐州(武寧軍)武華の乱
唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑