
明第14代統一王朝
万暦帝朱翊鈞
在位 1572年7月19日〜1620年8月18日(48年32日)
姓朱諱翊鈞廟号神宗諡号顕皇帝元号万暦
万暦帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀二十一(神宗二)
- 即位経路
- 明史 本紀二十(神宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
張居正に政治を任せた前半と、深宮にこもって大臣にほとんど会わなくなった後半とで、治世が分かれる明の皇帝である。明史の賛は、明が滅んだのは実は神宗(万暦帝)の代からだという論者の言葉をもっともだとしている。
即位まで
隆慶帝の第三子で、母は貴妃李氏である。幼いころ、宮中で一人馬を走らせる父を諫め、隆慶帝は喜んで馬を下りたという。1572年に隆慶帝が没して即位し、翌年を万暦元年とした。
治世と最期
即位後しばらくは張居正が政治を執った。1577年には、張居正が父の喪に服さず職にとどまったことを批判した呉中行・趙用賢らが杖で打たれた。1582年に張居正が没すると、万暦帝は2年後にその家を没収し、罪状を天下に示した。1589年からは官僚に会う機会を減らし、1612年には南京の御史が、帝は二十余年のあいだ一度も大臣に会っていないと上奏したが、返答は無かった。在位中には寧夏の哱拝の反乱、朝鮮に攻め込んだ日本軍との戦い、播州の楊応龍の反乱があり、1596年からは宦官を各地に送って鉱山を開かせ、税を取り立てさせた。1619年には遼東に出た楊鎬の軍が後金に大敗している。1620年に病で没し、遺詔で商税の取り立てと新設の織造をやめさせた。
在位中の出来事(33件)
大赦1572年7月隆慶六年六月甲子、即位に伴う大赦。
改元1573年元号を「万暦」とする
立后1578年萬曆六年二月庚子、王氏を皇后に立てる。
大赦1582年萬曆十年九月丙辰、皇長子(後の光宗常洛、萬曆十年八月生)誕生に伴う大赦。
被反乱1582年杭州兵変
被反乱1582年寧夏馬景の乱
被反乱1585年四川建武所兵変
被反乱1585年〜1586年四川松茂番の乱
被反乱1586年淇県賊王安の乱
被反乱1588年四川建昌番の乱(万暦十六年)
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被反乱1589年太湖・宿松賊劉汝国の乱
被反乱1589年雲南永昌兵変
被反乱1589年妖僧李圓朗の乱(南雄)
被反乱1591年四川四哨番の乱
被反乱1592年哱拝の乱(寧夏之役)
大赦1597年萬曆二十五年秋七月丁酉、大赦。
被反乱1597年〜1600年播州楊応龍の乱(播州之役)
被反乱1600年〜1601年貴州皮林苗の乱
大赦1601年萬曆二十九年冬十月己卯、皇長子常洛を皇太子に立てるのに伴う大赦。
被反乱1603年播州余賊呉洪の乱
被反乱1603年睢州賊楊思敬の乱
被反乱1604年〜1605年武昌宗人蘊鉁の乱
大赦1606年萬曆三十三年十二月乙卯、皇長孫(後の熹宗由校)誕生に伴う大赦。
被反乱1606年南京妖賊劉天緒の謀反
被反乱1607年〜1608年金沙江蛮阿克の乱(雲南)
被反乱1610年河南賊陳自管の乱
大赦1614年萬曆四十二年夏四月丙戌、慈聖皇太后(李太后)の遺命による大赦。
被反乱1614年建昌叛蛮の乱(万暦四十二年)
被反乱日付不詳潮州・恵州の賊(広東)
被反乱日付不詳四川都掌蛮の乱
被反乱日付不詳広東羅旁瑶の乱
被反乱日付不詳広西八寨賊の乱
被反乱日付不詳雲南隴川賊の乱
明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽