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万暦帝の肖像

明(みん)第14代統一王朝

万暦帝(ばんれきてい)朱(しゅ)翊鈞(よくきん)

在位 1572年7月19日〜1620年8月18日(48年32日)

姓朱(しゅ)諱翊鈞(よくきん)廟号神宗(しんそう)諡号顕皇帝(けんこうてい)元号万暦(ばんれき)

万暦帝の人物データ

生年
1563年
在位
  • 1572年7月19日〜1620年8月18日
在位 48年32日10歳で即位(数え年)・長さは365名中7位
没年
1620年8月18日58歳(数え年)267名中長寿順45位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
次代
目立つ記録
  • 被反乱25回(289名中10位)

出典(死因・即位経路)

死因
明史 本紀二十一(神宗二)
即位経路
明史 本紀二十(神宗一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

張居正(きょせい)に政治を任せた前半と、深宮にこもって大臣にほとんど会わなくなった後半とで、治世が分かれる明の皇帝である。明史(みんし)の賛(さん)は、明が滅んだのは実は神宗(しんそう)(万暦帝(ばんれきてい))の代からだという論者の言葉をもっともだとしている。

即位まで

隆慶帝(りゅうけいてい)の第三子で、母は貴妃(きひ)李氏(りし)である。幼いころ、宮中で一人馬を走らせる父を諫(いさ)め、隆慶帝(りゅうけいてい)は喜んで馬を下りたという。1572年に隆慶帝(りゅうけいてい)が没して即位し、翌年を万暦(ばんれき)元年とした。

治世と最期

即位後しばらくは張居正(きょせい)が政治を執った。1577年には、張居正(きょせい)が父の喪に服さず職にとどまったことを批判した呉中行(ちゅうこう)・趙(ちょう)用賢(ようけん)らが杖で打たれた。1582年に張居正(きょせい)が没すると、万暦帝(ばんれきてい)は2年後にその家を没収し、罪状を天下に示した。1589年からは官僚に会う機会を減らし、1612年には南京(なんきん)の御史が、帝は二十余年のあいだ一度も大臣に会っていないと上奏したが、返答は無かった。在位中には寧夏(ねいか)の哱拝(ぼはい)の反乱、朝鮮(ちょうせん)に攻め込んだ日本軍との戦い、播州(はしゅう)の楊(よう)応龍(おうりゅう)の反乱があり、1596年からは宦官(かんがん)を各地に送って鉱山を開かせ、税を取り立てさせた。1619年には遼東(りょうとう)に出た楊(よう)鎬(こう)の軍が後金に大敗している。1620年に病で没し、遺詔(いしょう)で商税(しょうぜい)の取り立てと新設の織造(しょくぞう)をやめさせた。

在位中の出来事(33件)

大赦1572年7月隆慶六年六月甲子、即位に伴う大赦。
改元1573年元号を「万暦」とする
立后1578年萬曆六年二月庚子、王氏を皇后に立てる。
大赦1582年萬曆十年九月丙辰、皇長子(後の光宗常洛、萬曆十年八月生)誕生に伴う大赦。
被反乱1582年杭州兵変
被反乱1582年寧夏馬景の乱
被反乱1585年四川建武所兵変
被反乱1585年〜1586年四川松茂番の乱
被反乱1586年淇県賊王安の乱
被反乱1588年四川建昌番の乱(万暦十六年)
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被反乱1589年太湖・宿松賊劉汝国の乱
被反乱1589年雲南永昌兵変
被反乱1589年妖僧李圓朗の乱(南雄)
被反乱1591年四川四哨番の乱
被反乱1592年哱拝の乱(寧夏之役)
大赦1597年萬曆二十五年秋七月丁酉、大赦。
被反乱1597年〜1600年播州楊応龍の乱(播州之役)
被反乱1600年〜1601年貴州皮林苗の乱
大赦1601年萬曆二十九年冬十月己卯、皇長子常洛を皇太子に立てるのに伴う大赦。
被反乱1603年播州余賊呉洪の乱
被反乱1603年睢州賊楊思敬の乱
被反乱1604年〜1605年武昌宗人蘊鉁の乱
大赦1606年萬曆三十三年十二月乙卯、皇長孫(後の熹宗由校)誕生に伴う大赦。
被反乱1606年南京妖賊劉天緒の謀反
被反乱1607年〜1608年金沙江蛮阿克の乱(雲南)
被反乱1610年河南賊陳自管の乱
大赦1614年萬曆四十二年夏四月丙戌、慈聖皇太后(李太后)の遺命による大赦。
被反乱1614年建昌叛蛮の乱(万暦四十二年)
被反乱日付不詳潮州・恵州の賊(広東)
被反乱日付不詳四川都掌蛮の乱
被反乱日付不詳広東羅旁瑶の乱
被反乱日付不詳広西八寨賊の乱
被反乱日付不詳雲南隴川賊の乱

明の歴代皇帝

16名の一覧

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