
明第5代統一王朝
宣徳帝朱瞻基
在位 1425年6月27日〜1435年1月31日(9年220日)
姓朱諱瞻基廟号宣宗諡号章皇帝元号宣徳
宣徳帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀第九(宣宗)
- 即位経路
- 明史 本紀第九(宣宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
祖父の永楽帝に目をかけられて育ち、叔父の漢王の挙兵を自ら平らげ、ベトナムからは兵を引き揚げた明の皇帝である。本紀の賛は、吏はその職にかない、政は平らかだったと讃える。
即位まで
仁宗の長子で、1411年に皇太孫となり、以後は永楽帝の巡幸や征討に常に従った。永楽帝は仁宗に、この子は他日太平の天子になると言ったという。仁宗が即位すると皇太子となった。1425年、南京の居守に出ていたところを仁宗の病で呼び戻され、良郷で遺詔を受け、宮城に入って即位した。漢王高煦伝によれば、叔父の高煦はこの帰路で待ち伏せを謀ったが、慌ただしくて果たせなかった。
治世と最期
1426年に高煦が楽安で挙兵すると、楊栄の勧めで、即位したばかりで自ら行かねばならないとして親征し、高煦は城を出て降った。高煦父子は幽閉され、明史は高煦と諸子が相継いで皆死んだとだけ書く。銅の甕をかぶせて焼き殺したという話は明史紀事本末にあり、正史には無い。乱の後、趙王高燧も討つべきだという意見が出たが、楊士奇らが反対して兵を動かさなかった。ベトナムでは黎利の反乱に敗れ続け、1427年に援軍の柳升が戦死すると、黎利を赦して文武の吏士を引き揚げさせた。楊士奇伝によれば、張輔らが反対するなか、楊士奇と楊栄が撤兵を説いた。1428年には北辺を巡る途中で兀良哈が入り込むと、精兵3000を率いて喜峰口を出て自ら矢を射て破った。同じ年、皇后の胡氏を廃して貴妃の孫氏を皇后とした。1435年の初めに乾清宮で没し、国の重務は皇太后に諮るよう遺詔した。
在位中の出来事(23件)
改元1425年6月27日元号を「宣徳」とする
大赦1425年6月27日即位に伴う大赦。
立后1425年7月胡氏を皇后に冊立。
被反乱1425年7月大藤峡蛮の反乱
被反乱1425年9月安定曲先叛番の反乱(第1次)
被反乱1425年12月思恩蛮の反乱(第1次)
親征1426年漢王朱高煦(山東・楽安における反乱、宗室藩王の挙兵)
被反乱1426年宜山蛮の反乱(第1次)
被反乱1426年漢王朱高煦の乱
被反乱1426年〜1427年交阯(黎利)の反乱
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大赦1427年皇長子(後の英宗・朱祁鎮)誕生を祝しての大赦。
被反乱1427年〜1428年松潘蛮の反乱(第1次)
立后1428年胡氏を廃した上で孫貴妃(孫氏)を皇后に冊立。
親征1428年兀良哈(会州に侵寇したモンゴル系勢力。明に服属しない北方勢力として対等勢力に分類し反乱には含めない)
被反乱1429年忻城蛮の反乱
被反乱1429年柳・浔蛮の反乱
被反乱1430年曲先叛番の反乱(第2次)
被反乱1431年松潘蛮の反乱(第2次)
被反乱1433年貴州烏羅蛮の反乱
被反乱1433年宜山蛮の反乱(第2次)
親征1434年北辺巡视(瓦剌による阿鲁台討滅を受けた辺境巡视、明確な交戦記録なし)
被反乱1434年思恩叛蛮の反乱(第2次)
被反乱1434年松潘叛蛮の反乱(第3次)
明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽