
明第7代統一王朝
景泰帝朱祁鈺
在位 1449年9月22日〜1457年2月11日(7年144日)
姓朱諱祁鈺廟号代宗諡号恭仁康定景皇帝元号景泰
景泰帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀第十一(景帝)/明史紀事本末 巻三十五(南宮復辟)
- 即位経路
- 明史 本紀第十一(景帝)/明史紀事本末 巻三十四(景帝登極守御)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
兄の正統帝が瓦剌に捕らわれたとき位に就いて北京を守り、兄の復位で廃された明の皇帝である。
即位まで
宣徳帝の次子で、兄の正統帝が即位したときに郕王に封じられた。1449年、正統帝が土木で瓦剌に捕らわれると、皇太后の命で国政を預かった。大臣たちが皇太后に郕王を帝に立てるよう願い、郕王は何度も断ったが、于謙に説かれて引き受け、まもなく即位して兄を太上皇とした。
治世と最期
即位の翌月に瓦剌のエセンが北京に迫ったが、于謙と石亨らが城下で撃退した。1450年に上皇が帰ってくると、景泰帝はこれを南宮に住まわせた。1452年には上皇の子の皇太子を廃して自分の子を太子に立てたが、その子は翌年に亡くなった。1457年の初めに病に倒れ、その翌月、太子を立てるよう求める声を退けた直後に、石亨と徐有貞らが上皇を迎えて位に戻した。郕王に落とされて西内に移され、同じ年のうちに亡くなり、戾という諡を付けられた。明史と明英宗実録は、薨じたと書くだけで死に方を記さない。宦官の蒋安が帛で絞め殺したと書くのは明の陸釴の病逸漫記である。清の谷応泰は明史紀事本末の評で、崩御の日月が史に明記されていないとして、宋の太祖の死と同じような疑いが残ると述べている。このサイトの死因が諸説ありとなっているのは、正史が死に方を書かず、絞め殺したという話が正史の外の書にしか無いためである。1476年、成化帝は奸臣が讒言して帝号を削らせたとして皇帝の号を戻し、改めて諡を贈った。
在位中の出来事(13件)
被反乱1449年9月〜1450年6月広東黄蕭養の乱
改元1449年9月22日元号を「景泰」とする
大赦1449年9月22日
被反乱1449年10月〜1456年12月西南苗族反乱(正統十四年~景泰七年、断続的)
立后1449年12月22日正統十四年十二月甲寅、汪氏を皇后に冊立。
大赦1449年12月24日
大赦1450年
大赦1452年
立后1452年景泰三年五月甲午、汪皇后を廃したうえで、皇太子見済の生母である杭氏を皇后に冊立。
皇太子廃立1452年景泰三年五月甲午、正統十四年に立てられていた皇太子朱見深(英宗の子、後の憲宗)を廃して沂王とし、代宗自身の子・見済を新たに皇太子に立てた。
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被反乱1452年福建盗蜂起
被反乱1457年2月11日奪門の変
被反乱日付不詳両広瀧水瑤の乱
明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽