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景泰帝の肖像

明(みん)第7代統一王朝

景泰帝(けいたいてい)朱(しゅ)祁鈺(きぎょく)

在位 1449年9月22日〜1457年2月11日(7年144日)

姓朱(しゅ)諱祁鈺(きぎょく)廟号代宗(だいそう)諡号恭仁康定景皇帝(きょうじんこうていけいこうてい)元号景泰(けいたい)

景泰帝の人物データ

生年
1428年
在位
  • 1449年9月22日〜1457年2月11日
在位 7年144日22歳で即位(数え年)・長さは365名中151位
没年
1457年3月14日30歳(数え年)267名中長寿順187位タイ
死因
諸説あり365名中15名
即位経路
擁立
先代
次代
  • 正統帝明復位による継承・正統帝は景泰帝の兄
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
明史 本紀第十一(景帝)/明史紀事本末 巻三十五(南宮復辟)
即位経路
明史 本紀第十一(景帝)/明史紀事本末 巻三十四(景帝登極守御)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

兄の正統帝(せいとうてい)が瓦剌(おいらと)に捕らわれたとき位に就いて北京を守り、兄の復位で廃された明の皇帝である。

即位まで

宣徳帝(せんとくてい)の次子で、兄の正統帝(せいとうてい)が即位したときに郕王(せいおう)に封じられた。1449年、正統帝(せいとうてい)が土木で瓦剌(おいらと)に捕らわれると、皇太后の命で国政を預かった。大臣たちが皇太后に郕王(せいおう)を帝に立てるよう願い、郕王(せいおう)は何度も断ったが、于(う)謙に説かれて引き受け、まもなく即位して兄を太上皇(たいじょうこう)とした。

治世と最期

即位の翌月に瓦剌(おいらと)のエセンが北京に迫ったが、于(う)謙と石亨(こう)らが城下で撃退した。1450年に上皇が帰ってくると、景泰帝(けいたいてい)はこれを南宮(なんぐう)に住まわせた。1452年には上皇の子の皇太子を廃して自分の子を太子に立てたが、その子は翌年に亡くなった。1457年の初めに病に倒れ、その翌月、太子を立てるよう求める声を退けた直後に、石亨(こう)と徐有貞(ゆうてい)らが上皇を迎えて位に戻した。郕王(せいおう)に落とされて西内(せいだい)に移され、同じ年のうちに亡くなり、戾(れい)という諡(おくりな)を付けられた。明史(みんし)と明英宗(えいそう)実録(じつろく)は、薨(こう)じたと書くだけで死に方を記さない。宦官(かんがん)の蒋(しょう)安が帛(はく)で絞め殺したと書くのは明の陸釴(よく)の病逸漫記(びょういつまんき)である。清の谷応泰(おうたい)は明史紀事本末(みんしきじほんまつ)の評で、崩御(ほうぎょ)の日月が史に明記されていないとして、宋(そう)の太祖(たいそ)の死と同じような疑いが残ると述べている。このサイトの死因が諸説ありとなっているのは、正史(せいし)が死に方を書かず、絞め殺したという話が正史(せいし)の外の書にしか無いためである。1476年、成化帝(せいかてい)は奸臣(かんしん)が讒言(ざんげん)して帝号(ていごう)を削らせたとして皇帝の号を戻し、改めて諡(おくりな)を贈った。

在位中の出来事(13件)

被反乱1449年9月〜1450年6月広東黄蕭養の乱
改元1449年9月22日元号を「景泰」とする
大赦1449年9月22日
被反乱1449年10月〜1456年12月西南苗族反乱(正統十四年~景泰七年、断続的)
立后1449年12月22日正統十四年十二月甲寅、汪氏を皇后に冊立。
大赦1449年12月24日
大赦1450年
大赦1452年
立后1452年景泰三年五月甲午、汪皇后を廃したうえで、皇太子見済の生母である杭氏を皇后に冊立。
皇太子廃立1452年景泰三年五月甲午、正統十四年に立てられていた皇太子朱見深(英宗の子、後の憲宗)を廃して沂王とし、代宗自身の子・見済を新たに皇太子に立てた。
残り3件を表示
被反乱1452年福建盗蜂起
被反乱1457年2月11日奪門の変
被反乱日付不詳両広瀧水瑤の乱

明の歴代皇帝

16名の一覧

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