
明第15代統一王朝
泰昌帝朱常洛
在位 1620年8月28日〜1620年9月26日(29日)
姓朱諱常洛廟号光宗諡号貞皇帝元号泰昌
泰昌帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀二十一(神宗二・泰昌紀)/列伝(方従哲伝・崔文升伝)
- 即位経路
- 明史 本紀二十一(神宗二)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
皇太子に立てられるまで20年近く待たされ、即位して1か月で没した明の皇帝で、その死は紅丸の案として後まで争われた。
即位まで
万暦帝の長子で、母は恭妃の王氏である。万暦帝は寵愛する鄭貴妃が朱常洵を生むと、廷臣がいくら求めても太子を決めず、泰昌帝が皇太子に立てられたのは1601年だった。1620年に万暦帝が没すると、遺詔に従って辺境に銀100万両を送り、全国の鉱税をやめさせ、まもなく即位した。
治世と最期
即位から半月あまりで病に倒れ、危篤となって方従哲らに後事を託したその日に、李可灼が紅丸という薬を進めた。明史の本紀はこの進薬と翌日の崩御を並べて書くだけで、両者を結びつけてはいない。方従哲伝によれば、鄭貴妃が珠玉と侍女8人を贈り、都では宦官の崔文昇が下剤を進めて帝を弱らせたと噂された。同じ伝では、泰昌帝が自ら李可灼を呼んで薬を進めさせ、飲んで忠臣だとほめ、日暮れにもう一丸を飲んだ翌朝に没した。崔文昇伝は、文昇は鄭貴妃の宮の宦官で、その大黄の薬で病が重くなり、外廷は貴妃の差し金による企みだと言い立てたと書く。1622年、孫慎行が方従哲を弑逆の罪で追及し、張問達らの合奏は弑逆の語を退けつつ方従哲の官階を削るよう求め、崔文昇の罪を李可灼より重いとした。結局、李可灼は辺境に送られ、崔文昇は南京へ追われ、方従哲は罪されなかった。清の谷応泰は明史紀事本末で、崔文昇の罪を李可灼より重いとしつつ、毒殺になぞらえるのは行き過ぎだと評している。
在位中の出来事(2件)
改元1620年8月28日元号を「泰昌」とする
大赦1620年8月28日万暦48年8月丙午朔、即位の日に大赦。
明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽