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泰昌帝の肖像

明(みん)第15代統一王朝

泰昌帝(たいしょうてい)朱(しゅ)常洛(じょうらく)

在位 1620年8月28日〜1620年9月26日(29日)

姓朱(しゅ)諱常洛(じょうらく)廟号光宗(こうそう)諡号貞皇帝(ていこうてい)元号泰昌(たいしょう)

泰昌帝の人物データ

生年
1582年9月
在位
  • 1620年8月28日〜1620年9月26日
在位 29日39歳で即位(数え年)・長さは365名中358位
没年
1620年9月26日39歳(数え年)267名中長寿順136位タイ
死因
諸説あり365名中15名
即位経路
世襲
先代
次代

出典(死因・即位経路)

死因
明史 本紀二十一(神宗二・泰昌紀)/列伝(方従哲伝・崔文升伝)
即位経路
明史 本紀二十一(神宗二)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

皇太子に立てられるまで20年近く待たされ、即位して1か月で没した明の皇帝で、その死は紅丸(こうがん)の案として後まで争われた。

即位まで

万暦帝(ばんれきてい)の長子で、母は恭妃(きょうひ)の王氏(おうし)である。万暦帝(ばんれきてい)は寵愛(ちょうあい)する鄭(てい)貴妃(きひ)が朱(しゅ)常洵(じょうじゅん)を生むと、廷臣がいくら求めても太子を決めず、泰昌帝(たいしょうてい)が皇太子に立てられたのは1601年だった。1620年に万暦帝(ばんれきてい)が没すると、遺詔(いしょう)に従って辺境に銀100万両を送り、全国の鉱税(こうぜい)をやめさせ、まもなく即位した。

治世と最期

即位から半月あまりで病に倒れ、危篤となって方従哲(じゅうてつ)らに後事を託したその日に、李(り)可灼(かしゃく)が紅丸(こうがん)という薬を進めた。明史(みんし)の本紀(ほんぎ)はこの進薬(しんやく)と翌日の崩御(ほうぎょ)を並べて書くだけで、両者を結びつけてはいない。方従哲(じゅうてつ)伝によれば、鄭(てい)貴妃(きひ)が珠玉と侍女8人を贈り、都では宦官(かんがん)の崔(さい)文昇(ぶんしょう)が下剤を進めて帝を弱らせたと噂(うわさ)された。同じ伝では、泰昌帝(たいしょうてい)が自ら李(り)可灼(かしゃく)を呼んで薬を進めさせ、飲んで忠臣だとほめ、日暮れにもう一丸を飲んだ翌朝に没した。崔(さい)文昇(ぶんしょう)伝は、文昇(ぶんしょう)は鄭(てい)貴妃(きひ)の宮の宦官(かんがん)で、その大黄の薬で病が重くなり、外廷(がいてい)は貴妃の差し金による企みだと言い立てたと書く。1622年、孫慎行(しんこう)が方従哲(じゅうてつ)を弑逆(しいぎゃく)の罪で追及し、張問達(もんたつ)らの合奏は弑逆(しいぎゃく)の語を退けつつ方従哲(じゅうてつ)の官階を削るよう求め、崔(さい)文昇(ぶんしょう)の罪を李(り)可灼(かしゃく)より重いとした。結局、李(り)可灼(かしゃく)は辺境に送られ、崔(さい)文昇(ぶんしょう)は南京(なんきん)へ追われ、方従哲(じゅうてつ)は罪されなかった。清の谷応泰(おうたい)は明史紀事本末(みんしきじほんまつ)で、崔(さい)文昇(ぶんしょう)の罪を李(り)可灼(かしゃく)より重いとしつつ、毒殺になぞらえるのは行き過ぎだと評している。

在位中の出来事(2件)

改元1620年8月28日元号を「泰昌」とする
大赦1620年8月28日万暦48年8月丙午朔、即位の日に大赦。

明の歴代皇帝

16名の一覧

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