
明第16代統一王朝
天啓帝朱由校
在位 1620年10月1日〜1627年9月30日(7年)
姓朱諱由校廟号熹宗諡号悊皇帝元号天啓
天啓帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀二十二(熹宗)
- 即位経路
- 明史 本紀二十二(熹宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
宦官の魏忠賢と乳母の客氏に宮中を任せ、東林党の官僚が獄死に追い込まれるのを許した明の皇帝である。
即位まで
泰昌帝の長子で、1605年に万暦帝の初孫として生まれた。1620年に父が在位1か月で没すると、遺詔によって後を継ぐことになった。父に仕えた李選侍が乾清宮に居座ったため、左光斗らが宮殿を明け渡すよう求め、選侍が移ったあとに天啓帝は即位した。
治世と最期
即位するとすぐ魏忠賢の兄に官を与え、乳母の客氏を奉聖夫人に封じた。1621年に後金の軍が瀋陽と遼陽を取り、同じ年に四川で奢崇明、翌年に貴州で安邦彦、山東で徐鴻儒が背いた。1624年、楊漣が魏忠賢の大罪24か条を弾劾したが、天啓帝は取り上げなかった。翌年には楊漣と左光斗らが捕らえられて獄死し、全国の東林書院が壊され、東林党人の名が掲げられた。1627年に乾清宮で没し、弟の信王が後を継いだが、その直前にも群臣に魏忠賢は忠実だと語っていた。明史の本紀は病の原因を書かず、全文を調べても舟遊びで水に落ちた話は出てこない。その話は文秉の先撥志始にあり、1626年に西苑で舟が風で覆って天啓帝は助けられたがこれで病になったとし、典拠を酌中志とするが、手元の酌中志にはその記事が見当たらない。明史の霍維華伝は、天啓帝が霍維華の献じた仙方の薬を初めは好んだがやがて飽き、病んで体がむくむと魏忠賢が霍維華を咎めたと書く。薬を服すうちに体がむくんで医薬が効かなかったとまで書くのは先撥志始である。明史の賛は、帝が凡庸で気が弱く、女と宦官に権を盗まれて忠良な臣が禍いに遭ったと評している。
在位中の出来事(10件)
改元1620年10月1日元号を「天啓」とする
大赦1620年10月1日即位に伴う大赦。
立后1621年皇后張氏(張皇后、後の懿安皇后)の冊立。
被反乱1621年奢崇明の乱(永寧宣撫使の反乱、後に安邦彦の乱と合流)
被反乱1622年安邦彦の乱(水西土司の反乱、「奢安の乱」の一角)
被反乱1622年徐鴻儒の乱(山東白蓮教徒の反乱)
被反乱1622年于弘志の乱(武邑の反乱)
大赦1623年皇子誕生に伴う大赦(天啟三年閏十月壬寅)。
被反乱1624年吳野樵の乱(長興の反乱、知県殺害)
大赦1625年皇子誕生に伴う大赦(天啟五年十月庚子)。
明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽