
清第3代統一王朝
順治帝福臨
在位 1643年10月8日〜1661年2月5日(17年125日)
姓愛新覚羅諱福臨廟号世祖諡号章皇帝元号順治
順治帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 清史稿 巻五(世祖本紀二)
- 即位経路
- 清史稿 巻四(世祖本紀一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
幼くして即位し、叔父の多爾袞の摂政のもとで入関して燕京に都を定め、親政ののちに若くして没した清の皇帝である。
即位まで
ホンタイジの第九子で、母は孝荘文皇后である。1643年にホンタイジが没したとき跡継ぎは定まっておらず、礼親王代善が諸王と議して福臨を立て、済爾哈朗と多爾袞が政治を補佐することになった。直後に阿達礼と碩託が多爾袞を立てようと謀って誅され、同じ年に福臨は即位した。清史稿の索尼伝は、両黄旗の大臣が皇子を立てるよう迫り、阿済格と多鐸が多爾袞に即位を勧めたこと、多爾袞がためらうと多鐸は自分を立てよと言い、多爾袞は豪格にも名があると答えたことを書く。
治世と最期
1644年、多爾袞が呉三桂の開いた山海関から入って李自成の軍を破り、順治帝は南郊で改めて即位して燕京を都とした。豪格は1648年に死罪とされ、帝が忍びずに幽閉したが、豪格伝は獄中で没したと書く。多爾袞伝によれば、多爾袞は1648年に皇父摂政王と尊ばれたが、本紀にはこの称号が出てこない。1650年に多爾袞が没すると帝の礼で葬られ、皇帝の号を追って贈られた。翌年に順治帝が親政を始めると、多爾袞の罪が事実とされて布告され、尊号は削られた。豪格は冤罪を雪がれ、粛親王に戻された。1657年に董鄂氏を皇貴妃に立て、1660年に董鄂氏が没すると、五日間朝を休んで皇后の位を追って贈り、自ら行状を数千言で書いた。1661年に病に倒れ、養心殿で没した。遺詔は自らの罪を14挙げ、そのなかに董鄂氏の喪祭が礼を越えたことを含めて、玄燁を皇太子に立てた。清史稿には病名も、出家したという話も書かれていない。
在位中の出来事(22件)
改元1643年10月8日元号を「順治」とする
大赦1644年順治元年七月壬寅、大赦。
大赦1644年順治元年十月甲子、上御皇極門にて天下に詔を頒ち大赦。
遷都1644年盛京(瀋陽) → 燕京(北京)
被反乱1646年謝遷山東之乱
被反乱1647年王永強延安・榆林之乱
大赦1648年順治五年十一月辛未、配天及び上尊号の礼成に伴い大赦。
被反乱1648年〜1649年姜瓖大同之乱
被反乱1648年〜1649年金声桓・王得仁南昌之乱
被反乱1648年〜1649年李成棟広東反正(叛清帰明)
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被反乱1648年〜1653年陝甘回民起義
被反乱1650年李建泰太原・太平之乱
大赦1651年順治八年正月庚申、上親政に伴い大赦。
大赦1651年順治八年二月己丑、大赦。
立后1651年順治八年八月戊午、科爾沁卓礼克図親王呉克善の女、博爾済錦氏を冊立して皇后とす(後に順治十年廃されて静妃となる)。
大赦1654年順治十一年六月庚辰、大赦。
大赦1654年順治十一年十一月壬寅、詔して大赦天下・咸与更始。
立后1654年順治十一年六月甲戌、科爾沁鎮国公綽爾済の女、博爾済錦氏(孝恵章皇后)を立てて皇后とす。
大赦1656年順治十三年七月癸丑、大赦。
大赦1657年順治十四年三月癸丑、配享の礼成に伴い大赦天下。
大赦1658年順治十五年正月庚子、大赦。
被反乱1660年郝承裔邛州・嘉定之乱