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乾隆帝の肖像

清(しん)第6代統一王朝

乾隆帝(けんりゅうてい)弘暦(こうれき)

在位 1735年10月8日〜1796年2月8日(60年138日)

姓愛新覚羅(あいしんかくら)諱弘暦(こうれき)廟号高(こう)宗(そう)諡号純皇帝(じゅんこうてい)元号乾隆(けんりゅう)

乾隆帝の人物データ

生年
1711年9月25日
在位
  • 1735年10月8日〜1796年2月8日
在位 60年138日25歳で即位(数え年)・長さは365名中2位
没年
1799年2月7日89歳(数え年)267名中長寿順1位
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
次代

出典(死因・即位経路)

死因
清史稿 本紀十五(高宗本紀六)
即位経路
清史稿 本紀十(高宗本紀一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

ジュンガルと回部(かいぶ)を平定し、清の版図を西へ広げた皇帝である。清史稿(しんしこう)の論賛(ろんさん)は国勢が極まった時代の君として讃(たた)え、そのうえで、晩年は政務に倦(う)み、寵臣(ちょうしん)に目を塞がれたと惜しんでいる。

即位まで

雍正帝(ようせいてい)の第四子である。少年のころ祖父の康熙帝(こうきてい)に可愛がられて宮中で学び、巻狩(まきがり)で熊に突進されても動じなかったと本紀(ほんぎ)は記す。雍正帝(ようせいてい)は即位した翌年に後継ぎの名を密書し、正大光明と書かれた扁額(へんがく)の裏に納めた。1735年に雍正帝(ようせいてい)が円明園(えんめいえん)で没すると、荘親王(そうしんのう)允禄(いんろく)らがその密封を開き、乾隆帝(けんりゅうてい)が即位した。

治世と最期

1755年にジュンガルの達瓦斉(だわち)を捕らえ、1759年には回部(かいぶ)の指導者霍集占(かくしゅうせん)の首が届けられて回部(かいぶ)も帰順した。1773年に四庫全書(しこぜんしょ)の総裁を任じ、1793年には熱河(ねっか)の離宮(りきゅう)でイギリスの使節マカートニーを引見した。1795年に嘉親王(かしんのう)を皇太子に立て、翌年に位を譲った。譲位のあとも太上(たいじょう)皇帝として軍国の大事を決め、宮中の暦は乾隆(けんりゅう)の年号を使い続けた。1799年に病で没すると嘉慶帝(かけいてい)が親政を始め、5日後に大学士(だいがくし)の和珅(しん)を獄に下し、同じ月のうちに死を命じた。

在位中の出来事(19件)

改元1735年10月18日元号を「乾隆」とする
被反乱1737年貴州定番州苗阿沙の乱
立后1738年乾隆二年十二月丁亥、嫡妃富察氏を皇后に冊立(孝賢皇后)。
被反乱1740年湖南綏寧・広西義寧苗瑶の乱
被反乱1747年〜1749年大金川の乱(第一次金川の役)
被反乱1749年四川雑谷土司蒼旺の乱
立后1750年乾隆十五年八月壬申、皇貴妃那拉氏(烏拉那拉氏、嫻皇貴妃)を皇后に冊立。
被反乱1750年〜1751年チベット珠爾默特那木扎勒の乱
被反乱1757年〜1759年回部大小和卓の乱
被反乱1765年烏什事件
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被反乱1770年貴州古州苗の乱
被反乱1771年〜1776年大小金川の乱(第二次金川の役)
被反乱1774年山東王倫(清水教)起義
被反乱1781年甘粛蘇四十三回変
被反乱1784年甘粛田五・石峰堡回変
被反乱1786年〜1788年台湾林爽文起義
被反乱1787年湖南凤凰苗の乱
被反乱1795年台湾陳周全起義
被反乱1795年貴州湖南苗民大起義(乾嘉苗民起義)

清の歴代皇帝

11名の一覧

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