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ホンタイジの肖像

清(しん)第2代統一王朝

ホンタイジ皇太極(こうたいきょく)

在位 1636年5月15日〜1643年9月21日(7年130日)

姓愛新覚羅(あいしんかくら)諱皇太極(こうたいきょく)廟号太宗(たいそう)諡号文皇帝(ぶんこうてい)元号崇徳(すうとく)

ホンタイジの人物データ

生年
1592年11月28日
在位
  • 1636年5月15日〜1643年9月21日
在位 7年130日45歳で即位(数え年)・長さは365名中152位
没年
1643年9月21日52歳(数え年)267名中長寿順73位タイ
死因
不詳365名中33名
即位経路
擁立帝号を新たに称した
先代
  • 愛新覚羅努爾哈赤(ヌルハチ)ホンタイジは愛新覚羅努爾哈赤(ヌルハチ)の子
次代
  • 順治帝清順治帝はホンタイジの子

出典(死因・即位経路)

死因
清史稿 巻三(太宗本紀二)
即位経路
清史稿 巻二(太宗本紀一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

ヌルハチの後を継いで即位し、のちに国号を大清(だいしん)と定めて皇帝を称した清の第二代である。朝鮮(ちょうせん)を降し、松山(しょうざん)・錦州(きんしゅう)で明の大軍を破った。

即位まで

太祖(たいそ)ヌルハチの第八子で、1616年に代善(だいぜん)・阿敏(あびん)・莽古爾泰(もうこじたい)と並ぶ四大貝勒(しだいべいれ)の一人となった。太祖(たいそ)が後継を定めずに没すると、代善(だいぜん)と子の岳託(がくたく)・薩哈廉(さつはれん)が才徳を推して諸貝勒(べいれ)と議し、ホンタイジは再三辞退したのちに受けた。1626年に瀋陽(しんよう)で即位し、翌年を天聡(てんそう)元年とした。太祖(たいそ)の没した翌日には、大妃(たいひ)のナラ氏が殉死している。

治世と最期

1629年には自ら明へ攻め込み、翌1630年の初めに北京の近くの盧溝橋(ろこうきょう)で明軍(みんぐん)を破った。1635年に多爾袞(ドルゴン)らが遠征先から玉璽(ぎょくじ)を持ち帰ると、天に告げてこれを受けた。1636年には尊号(そんごう)を受けて天下の号を大清(だいしん)と定め、崇徳(すうとく)と改元(かいげん)し、礼が終わったとして大赦した。同じ年の末には朝鮮(ちょうせん)へ親征(しんせい)し、1637年に江華島(こうかとう)が落ちて妻子が捕らえられると、国王(こくおう)李(り)倧(そう)は三田渡(さんでんと)に出て降り、明から与えられた印を差し出した。1641年、洪承疇(しょうちゅう)らが錦州(きんしゅう)を救おうと松山(しょうざん)に兵を置くと、自ら大軍を率いて迎え撃った。その最中に宸妃(しんぴ)が病むと包囲を諸将に任せて引き返したが、宸妃(しんぴ)は帰り着く前に没した。1642年に松山(しょうざん)を抜いて洪承疇(しょうちゅう)を捕らえ、錦州(きんしゅう)も落として祖大寿(そたいじゅ)を降した。1643年の本紀(ほんぎ)には、年の前半に二度、病の記事がある。同じ年、崇政殿(すうせいでん)に出たその夜に没したが、清史稿(しんしこう)はこれを疾無くして崩じたと書き、病名も死因も記していない。

在位中の出来事(8件)

改元1636年5月15日元号を「崇徳」とする
大赦1636年5月17日崇徳元年四月丁亥、受尊号の礼が終わったとして大赦した(本紀は礼の2日後の条に置く)。
大赦日付不詳崇徳二年秋七月壬午、大赦。
大赦日付不詳崇徳六年十月壬申、万寿節(皇帝誕生日)に大赦。
立后日付不詳崇徳元年(1636年)、博尔济吉特氏(哲哲、科尔沁貝勒莽古思の女)が中宮皇后(孝端文皇后)として正式に冊立された。
親征日付不詳朝鮮(李氏朝鮮、国王李倧)
親征日付不詳喀爾喀蒙古(ハルハ・モンゴル)
親征日付不詳明(錦州・松山方面、祖大寿・洪承畴)

清の歴代皇帝

11名の一覧

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