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陳(ちん)漢(かん)(元(げん))第2代分裂期の王朝

陳理(ちんり)

在位 1363年〜1364年3月(1年60日)

姓陳(ちん)諱理(り)

陳理の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1363年〜1364年3月
在位 1年60日長さは365名中282位タイ
没年
不詳
死因
不詳365名中33名
即位経路
継承(経緯記載なし)
先代
次代
—
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
明史 巻一百二十三
即位経路
明史 巻一百二十三/元史 巻四十六

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

陳理(ちんり)は陳友諒(ちんゆうりょう)の子で、1363年に父が鄱陽湖(はようこ)で死んだのち武昌(ぶしょう)で位を嗣いだ。1364年に朱元璋(しゅげんしょう)に降った。

即位まで

明史(みんし)の列伝(れつでん)は、友諒(ゆうりょう)の死後、太尉(たいい)の張定邊(ていへん)が夜、友諒(ゆうりょう)の次子の陳理(ちんり)を伴い、その屍(しかばね)を載せて武昌(ぶしょう)へ逃げ帰ったと記す。新元史(しんげんし)の陳友諒(ちんゆうりょう)伝は、陳理(ちんり)を少子とし、陳理(ちんり)が皇帝を僭称(せんしょう)して徳寿(とくじゅ)と改元(かいげん)したと記す。友諒(ゆうりょう)の死んだ月を、新元史(しんげんし)の順帝本紀(じゅんていほんぎ)と明史(みんし)本紀(ほんぎ)は違えて記す。

治世と最期

明史(みんし)の列伝(れつでん)は、1363年の冬に朱元璋(しゅげんしょう)が武昌(ぶしょう)に親征(しんせい)し、翌年にも再び親征(しんせい)したと記す。陳理(ちんり)の丞相(じょうしょう)の張必先(ひっせん)が岳州(がくしゅう)から救援に来たが、常遇春(ぐうしゅん)に捕らえられ、城中は大いに恐れた。朱元璋(しゅげんしょう)は友諒(ゆうりょう)の旧臣の羅復仁(ふくじん)を城内へ遣わして降るよう招き、陳理(ちんり)は降って軍門(ぐんもん)に入り、うつ伏せて顔を上げられなかった。朱元璋(しゅげんしょう)は陳理(ちんり)が幼弱なのを見て抱き起こして手を握り、お前を罪とせぬと言い、応天(おうてん)に帰って爵を授けて帰徳侯(きとくこう)とした。新元史(しんげんし)は、この爵を順徳侯(じゅんとくこう)と記す。明史(みんし)の本紀(ほんぎ)は、1372年に陳理(ちんり)と明昇(めいしょう)を高麗へ徙(うつ)したと記し、新元史(しんげんし)は、その行く末は分からないとする。陳理(ちんり)の生年と没年は、調べた書のどれにも書かれていない。

在位中の出来事(2件)

遷都1363年江州 → 武昌
改元1363年8月元号を「徳寿」とする

陳漢の歴代皇帝

2名の一覧

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