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陳(ちん)漢(かん)(元(げん))第1代分裂期の王朝

陳友諒(ちんゆうりょう)

在位 1360年6月16日〜1363年10月3日(3年109日)

姓陳(ちん)諱友諒(ゆうりょう)

陳友諒の人物データ

生年
1320年
在位
  • 1360年6月16日〜1363年10月3日
在位 3年109日41歳で即位(数え年)・長さは365名中220位
没年
1363年10月3日44歳(数え年)267名中長寿順110位タイ
死因
戦死非業の死・365名中8名
即位経路
簒奪
先代
  • 徐寿輝天完陳友諒と徐寿輝に血縁はない
次代
  • 陳理陳漢陳理は陳友諒の子

出典(死因・即位経路)

死因
明史 巻一百二十三/元史 巻四十六(順帝九)
即位経路
明史 巻一百二十三

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

元末の群雄で、主君の徐寿輝(じょじゅき)を殺して漢の皇帝を称し、朱元璋(しゅげんしょう)と争ったが、鄱陽湖(はようこ)の戦いで流れ矢に当たって死んだ。

即位まで

明史(みんし)の列伝(れつでん)によれば、沔陽(べんよう)の漁家の子で、本姓は謝であり、祖父が陳家に婿入りしたため陳を名乗った。父の陳(ちん)普才(ふさい)の子のうち、明史(みんし)は三番目、新元史(しんげんし)は次子とする。徐寿輝(じょじゅき)が兵を起こすと、その将の倪(げい)文俊(ぶんしゅん)の下で簿掾(ぼえん)となった。1357年、倪(げい)文俊(ぶんしゅん)が徐寿輝(じょじゅき)を殺そうとして果たせずに逃げると、陳友諒(ちんゆうりょう)はその隙に倪(げい)文俊(ぶんしゅん)を殺して兵を併せた。新元史(しんげんし)の列伝(れつでん)はこれを前年のこととする。徐寿輝(じょじゅき)が江州(こうしゅう)へ来ると、城外に兵を伏せて迎え入れ、門を閉じてその部下をことごとく殺し、自らは漢王を称した。1360年、太平を落としたのち采石(さいせき)で、部将に徐寿輝(じょじゅき)の前で用件を申させ、その隙に壮士に鉄の撾(か)で頭を打ち砕かせた。采石(さいせき)の五通廟(ごつうびょう)を行殿(こうでん)として即位し、国号を漢、元号を大義としたが、大風雨のため群臣の祝賀は礼にならなかった。元史(げんし)の順帝本紀(じゅんていほんぎ)はこの弑殺(しいさつ)の場所を太平路(たいへいろ)とする。

治世と最期

同じ年、朱元璋(しゅげんしょう)は康茂才(もさい)に偽りの書を送らせて陳友諒(ちんゆうりょう)を誘い出し、陳友諒(ちんゆうりょう)は龍湾(りゅうわん)で大敗した。1363年、高さ数丈の楼船(ろうせん)数百艘に家族と百官を乗せて南昌(なんしょう)を攻めたが、朱文正(ぶんせい)と鄧(とう)愈(ゆ)に三か月守り抜かれた。囲みを解いて鄱陽湖(はようこ)に出ると、康郎山(こうろうざん)で朱元璋(しゅげんしょう)軍と遭い、巨艦を鎖でつないで陣としたが、風が起こると火を放たれ、弟の陳友仁(ゆうじん)らが焼け死んだ。食糧が尽きて湖口から囲みを破ろうとし、涇江口(けいこうこう)の戦いで舟から首を出して指図していたところを、流れ矢が目から頭を貫いた。新元史(しんげんし)の列伝(れつでん)は、明側が投降を約すと偽って使者を送り、自ら出て会ったところを射られたとし、没年齢を四十八とする。表の没年齢は明史紀事本末(みんしきじほんまつ)の四十四による。太子の善児(ぜんじ)は捕らえられ、太尉(たいい)の張定辺(ていへん)が次子の陳理(ちんり)を連れ、遺体を載せて武昌(ぶしょう)へ逃げ帰った。

在位中の出来事(4件)

親征1360年朱元璋(明・太祖)
改元1360年6月16日元号を「大義」とする
改元1361年元号を「大定」とする
親征日付不詳朱元璋(明・太祖)

陳漢の歴代皇帝

2名の一覧

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