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前秦(ぜんしん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第6代分裂期の王朝

高帝(こうてい)苻登(ふとう)

在位 386年〜394年(7年244日)

姓苻(ふ)諱登(とう)字文高(ぶんこう)廟号太宗(たいそう)

高帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 386年〜394年
在位 7年244日長さは365名中148位
没年
394年52歳(数え年)267名中長寿順73位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
擁立
先代
  • 哀平帝前秦高帝は哀平帝の同族(遠縁)
次代
  • 末帝前秦末帝は高帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第十四 苻登
即位経路
晉書 載記第十四 苻登

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

苻登(ふとう)は前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)の族孫で、苻丕(ふひ)の死後に即位し、苻堅(ふけん)を殺した後秦(こうしん)の姚萇(ようちょう)・姚興(ようこう)と戦い続けた。苻堅(ふけん)の神主(しんしゅ)を車に載せて戦い、最後は姚興(ようこう)に敗れて殺された。

即位まで

字は文高(ぶんこう)で、父の苻敞(ふしょう)は苻生(ふせい)に殺されていた。386年、枹罕(ふかん)の氐(てい)の啖(たん)青が、苻登(ふとう)は王室の遠い一族だが志略(しりゃく)に優れるとして帥に立てることを迫り、諸将は苻登(ふとう)を推して苻丕(ふひ)に任命を請うた。苻丕(ふひ)が敗れると、苻丕(ふひ)の子の苻(ふ)懿(い)らが苻登(ふとう)のもとへ逃れてきた。苻登(ふとう)は苻(ふ)懿(い)を君主に立てようとしたが、衆は幼いとして退け、苻登(ふとう)が同じ年に皇帝の位に即いて太初(たいしょ)と改元(かいげん)した。資治通鑑(しじつがん)は、この即位を隴東(ろうとう)に壇を築いて行ったものとし、年の暮れの条に置く。

治世と最期

苻登(ふとう)は苻堅(ふけん)の神主(しんしゅ)を軍中に立てて車に載せ、戦う前には必ず告げ、将士は矛や鎧(よろい)に死休(しきゅう)の字を刻んで戦死を誓った。姚萇(ようちょう)が軍中に苻堅(ふけん)の神像を立てて祈ると、苻登(ふとう)は君を殺しておいて神像に福を祈るとは何事かと叫んだ。安丘(あんきゅう)で姚(よう)崇を大破したが、姚萇(ようちょう)に大界の陣営を夜襲されて陥とされ、妻の毛氏(もうし)と子の苻(ふ)弁・苻(ふ)尚を殺された。右丞相(じょうしょう)とした竇(とう)冲(ちゅう)は背いて秦王(しんおう)を称し、姚萇(ようちょう)と結んだ。394年、姚萇(ようちょう)が死ぬと苻登(ふとう)は喜んで全軍で東進したが、姚興(ようこう)の将の尹(いん)緯に廃橋(はいきょう)で待ち受けられ、水を得られずに多くが渇死し、単騎で雍(よう)へ逃れた。弟の苻(ふ)広と太子の苻崇(ふすう)も逃げ散り、苻登(ふとう)は子を乞伏乾帰(きっぷくけんき)に人質として送って援軍二万を得たが、援軍を迎えに出たところを姚興(ようこう)と山南で戦って敗れ、殺された。晋書(しんじょ)の載記(さいき)は敗れて殺されたとだけ書き、資治通鑑(しじつがん)は捕らえてから殺したとし、晋書(しんじょ)の姚興(ようこう)載記(さいき)は斬ったとする。太子の苻崇(ふすう)は湟中(こうちゅう)で尊号(そんごう)を称し、苻登(ふとう)に高皇帝(こうこうてい)と諡(おくりな)した。

在位中の出来事(9件)

改元386年元号を「太初」とする
大赦386年
親征386年12月〜393年12月後秦(姚萇)
大赦393年
親征393年窦冲
親征393年〜394年後秦(姚興)
被反乱393年窦冲の反乱
大赦日付不詳
立后日付不詳

前秦の歴代皇帝

5名の一覧

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