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前秦(ぜんしん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第3代分裂期の王朝

厲王(れいおう)苻生(ふせい)

在位 355年〜357年(2年152日)

姓苻(ふ)諱生(せい)字長生(ちょうせい)

厲王の人物データ

生年
不詳
在位
  • 355年〜357年
在位 2年152日長さは365名中245位
没年
357年7月23歳(数え年)267名中長寿順217位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第十三 苻生
即位経路
晉書 載記第十三 苻生

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

苻生(ふせい)は前秦(ぜんしん)の苻健(ふけん)の子で、父の跡を継いだが、皇后や大臣を次々に殺した記事が史書に並ぶ。357年、従兄弟の苻(ふ)法・苻堅(ふけん)らの政変で廃されて殺され、厲王(れいおう)と諡(おくりな)された。

即位まで

字は長生(ちょうせい)で、苻健(ふけん)の第三子として生まれ、生まれつき片目が無かった。祖父の苻洪(ふこう)は、幼い苻生(ふせい)を早く除かねば家を破ると苻健(ふけん)に言い、苻健(ふけん)が殺そうとしたのを、弟の苻雄(ふゆう)が止めた。太子の苻(ふ)萇(ちょう)が死ぬと、苻健(ふけん)は三羊五眼(さんようごがん)の讖言(しんげん)に合うとして苻生(ふせい)を太子に立てた。苻健(ふけん)の死後に即位して寿光(じゅこう)と改元(かいげん)したが、晋書(しんじょ)の載記(さいき)はこれを356年とし、資治通鑑(しじつがん)は苻健(ふけん)の死の翌日とする。

治世と最期

資治通鑑(しじつがん)によれば、年を越さないうちの改元(かいげん)は非礼だと群臣が奏すると、苻生(ふせい)は怒って右僕射(うぼくや)の段純を殺した。星の異変で大臣の誅戮(ちゅうりく)が占われると、苻生(ふせい)は災いを皇后と顧命(こめい)の大臣に当てるとして、皇后の梁氏(りょうし)や太傅(たいふ)の毛貴らを殺した。丞相(じょうしょう)の雷弱兒(じゃくじ)をその子や孫とともに誅(ちゅう)すると、諸羌(しょきょう)はことごとく叛(そむ)いた。失政を諫(いさ)めた母の弟の強平も殺され、母の強氏(きょうし)は憂い恨んで死んだ。苻生(ふせい)は自ら書を下して、殺したのは千人に満たないのに刑が苛酷だと言われると述べている。357年、苻生(ふせい)が侍婢(じひ)に苻(ふ)法の兄弟を明日除くと漏らしたことが伝わり、苻(ふ)法が壮士数百人で雲龍門(うんりゅうもん)に入り、苻堅(ふけん)も続いて宿衛は苻堅(ふけん)に帰順した。眠り込んでいた苻生(ふせい)は別室に移され、越王(えつおう)に落とされたのち、まもなく殺された。晋書(しんじょ)の苻堅(ふけん)載記(さいき)と穆帝(ぼくてい)紀(き)は殺したのを苻堅(ふけん)とする。北魏(ほくぎ)の洛陽伽藍記(らくようがらんき)では、隠士の趙(ちょう)逸が、苻堅(ふけん)が君を弑(しい)して位を取ったので史官(しかん)がみだりに苻生(ふせい)の悪を書いたと語っている。

在位中の出来事(4件)

改元355年7月元号を「寿光」とする
大赦355年7月
立后355年7月
被反乱357年7月雲龍門の政変(苻堅による苻生弑逆)

前秦の歴代皇帝

5名の一覧

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