
斉・南北朝第6代分裂期の王朝
廃帝蕭宝巻
在位 498年9月1日〜501年12月31日(3年122日)
姓蕭諱宝巻字智蔵別称東昏侯
廃帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 南齊書/卷7(東昏侯紀)
- 即位経路
- 南齊書/卷7(東昏侯紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
蕭宝巻は南斉の明帝蕭鸞の第二子で、498年に父の死を受けて位に即いた。宰臣を次々に誅し、各地で反乱が起こるなか、501年、蕭衍の軍に囲まれた建康で、寝返った王珍国と張稷の兵に殺された。
即位まで
蕭宝巻は本名を明賢といい、494年に皇太子に立てられた。498年、明帝が崩じて蕭宝巻が即位した。南斉書によれば、明帝は臨終に鬱林王の轍を戒め、事を為すのに人の後れを取るなと言い残した。南斉書は、そのため蕭宝巻が群小を用いて宰臣を誅したのだと記す。
治世と最期
499年、揚州刺史の始安王蕭遥光が東府に拠って反し、蕭坦之に討たれて斬られた。南史によれば、同じ年のうちに江祏や蕭坦之、劉暄らが相次いで殺された。尚書令の徐孝嗣と右僕射の沈文季も誅された。500年には陳顕達が尋陽で、崔慧景が広陵で兵を挙げ、ともに斬られた。崔慧景の乱を救った蕭懿もまもなく害され、梁書によれば、長兄の死を聞いた蕭衍が襄陽で兵を挙げた。蕭宝巻は通る道筋の住民を追い払って家々を空にさせ、寵姫の潘氏を貴妃とした。籠城のさなか、茹法珍が将兵への賞賜を請うと、賊は自分一人を取りに来るのかと言って金銭を惜しんだ。南史によれば、茹法珍らが大臣をことごとく誅すよう説いたので、禍を恐れた王珍国と張稷が蕭衍に応じることを謀った。501年、二人が兵を率いて殿中に入ると、逃げようとした蕭宝巻は宦官の黄泰平に膝を斬られ、張斉に首を斬られた。永元三年の丙寅の条を、南斉書は兵が殿に入って帝を廃したと書き、南史は帝を殺したと書く。死後、宣徳太后の令で東昏侯に追封された。
在位中の出来事(12件)
立后498年12月9日永泰元年十一月戊子、皇后褚氏を立后。
改元499年元号を「永元」とする
大赦499年
大赦499年永元元年四月己巳、皇太子誦(蕭誦)を立てるとともに大赦。
大赦499年永元元年八月壬戌、相次ぐ大臣誅殺を受けての大赦天下。
被反乱499年始安王蕭遥光の乱
大赦500年永元二年五月壬子、崔慧景の乱鎮圧・江夏王宝玄伏誅後の大赦。
被反乱500年陳顕達の挙兵
被反乱500年裴叔業の反乱(寿春の北魏降伏)
被反乱500年崔慧景の乱
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被反乱500年12月24日〜501年12月31日蕭穎冑・蕭衍(梁王、後の梁武帝)の挙兵と王珍国・張稷のクーデター
大赦501年2月19日永元三年正月辛亥、南郊祭祀に伴う大赦天下。