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煬帝の肖像

隋(ずい)第2代統一王朝

煬帝(ようだい)楊(よう)広(こう)

在位 604年8月21日〜618年4月11日(13年236日)

姓楊(よう)諱広(こう)幼名阿摐(あそう)廟号世祖(せいそ)

煬帝の人物データ

生年
569年
在位
  • 604年8月21日〜618年4月11日
在位 13年236日36歳で即位(数え年)・長さは365名中97位
没年
618年4月11日50歳(数え年)267名中長寿順83位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
  • 文帝隋煬帝は文帝の子
次代
目立つ記録
  • 被反乱66回(289名中2位)

出典(死因・即位経路)

死因
隋書 帝紀五(恭帝紀)/北史 巻十二/資治通鑑 巻一八五(隋紀七)
即位経路
隋書 帝紀三(煬帝上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

運河を開いて高句麗(こうくり)に大軍を送り、江都(こうと)の宮中で近衛の兵に殺された隋(ずい)の皇帝である。

即位まで

文帝(ぶんてい)の第二子で、母は独孤(どっこ)皇后(こうごう)である。581年に晋王(しんおう)に立てられた。600年に兄の皇太子(こうたいし)楊(よう)勇が庶人(しょじん)に落とされ、代わって皇太子となった。煬帝(ようだい)紀(き)の末尾は、跡継ぎの順に当たらない身で兄の座を奪おうと謀って母に取り入り、楊素(ようそ)らが煽(あお)って廃立が成ったと書く。604年に文帝(ぶんてい)が仁寿宮(じんじゅきゅう)で没し、煬帝(ようだい)が即位した。隋書(ずいしょ)の本紀(ほんぎ)は、文帝(ぶんてい)の死に煬帝(ようだい)が手を下したとは書かない。隋書(ずいしょ)の宣華夫人(せんかふじん)の伝は、病床の文帝(ぶんてい)が太子の無礼を聞いて怒り楊(よう)勇を呼ぼうとしたが、太子が張衡を寝殿に入れて人を退け、まもなく崩御(ほうぎょ)が伝えられたと書く。資治通鑑(しじつがん)はこれに内外で異論が多かったと書き添え、考異(こうい)は張衡が毒を進めた、あるいは文帝(ぶんてい)を打ったとする他書の説を挙げたうえで隋書(ずいしょ)に従っている。

治世と最期

605年に洛陽(らくよう)に東京(とうけい)を造らせ、百余万人を動員して通済渠(つうさいきょ)を開き、608年には永済(えいせい)渠(きょ)を涿郡(たくぐん)まで通した。第一次の高句麗(こうくり)遠征は号して200万の大軍だったが、薩水(さっすい)で宇文述(うぶんじゅつ)らの九軍が敗れ、逃げ帰った将兵は2千余騎だった。617年、唐公(とうこう)が長安(ちょうあん)に入り、煬帝(ようだい)を遠く太上皇(たいじょうこう)に立てて代王(だいおう)侑(ゆう)を帝とした。618年、宇文化及(うぶんかきゅう)・司馬徳戡(しばとくかん)らが近衛の驍果(ぎょうか)を率いて宮中に押し入り、煬帝(ようだい)は殺された。本紀(ほんぎ)は手段も手を下した者も書かない。宇文化及(うぶんかきゅう)伝は令狐(れいこ)行達(こうたつ)に殺させたとし、資治通鑑(しじつがん)は、煬帝(ようだい)が毒酒を求めて許されず、自ら練り絹の巾を解いて渡し、絞め殺されたと書く。資治通鑑(しじつがん)の考異(こうい)によれば、手を下した者を別の名で伝える書もある。

在位中の出来事(79件)

被反乱604年漢王諒の乱
改元605年元号を「大業」とする
大赦605年
立后605年大業元年春正月壬辰朔、改元・大赦と同日に晋王妃であった蕭氏を皇后に立てた。
大赦606年大業2年四月辛亥、東京入城の翌日に大赦し、今年の租税を免除。
大赦607年大業3年四月甲申、律令頒布と同時に大赦天下。
大赦608年大業4年八月辛酉、恆岳(恒山)親祭に伴い大赦天下。
大赦609年大業5年六月戊午(原文は六月丁酉の記事から続く一連の干支表記で、五月ではなく六月に属する)、吐谷渾遠征中の観風行殿での宴の後に大赦天下。
親征609年吐谷渾
被反乱610年建国門蜂起未遂
残り69件を表示
被反乱610年雁門の乱
被反乱610年朱崖の乱
親征612年高句麗(第一次遼東遠征)
大赦613年大業9年正月戊戌、第二次高句麗遠征準備中に大赦。
親征613年高句麗(第二次遼東遠征)
被反乱613年平原の乱
被反乱613年『阿舅賊』の乱
被反乱613年『奴賊』の乱
被反乱613年済北の乱(韓進洛)
被反乱613年済陰の乱
被反乱613年『盧公』の乱
被反乱613年〜617年済北の乱(甄宝車)
被反乱613年楊玄感の乱
被反乱613年江南の乱
被反乱613年信安の乱
被反乱613年済陰・東海の乱
被反乱613年蒼梧の乱
被反乱613年東陽の乱
被反乱613年東郡包囲
被反乱613年〜617年孟譲の乱
被反乱613年長白山の乱(王薄)
被反乱613年清河の乱
被反乱613年渤海の乱(燕王を自称)
被反乱613年斉王を自称する乱
被反乱613年扶風の乱(自称皇帝・建元白烏)
親征614年高句麗(第三次遼東遠征)
被反乱614年扶風の乱(唐王を自称)
被反乱614年延安の乱(建元大世)
被反乱614年建安の乱
被反乱614年琅邪の乱
被反乱614年彭城の乱(懸薄山)
被反乱614年離石胡の乱(天子を自称)
被反乱614年林慮山の乱
被反乱614年〜615年長平・西河の乱
大赦615年大業10年十二月壬申、東都行幸のその日に大赦天下。
被反乱615年上谷の乱(漫天王・燕を自称)
被反乱615年〜616年歴山飛の乱
被反乱615年淮南の乱
被反乱615年彭城の乱(魯郡侵攻)
被反乱615年陳・汝の乱
被反乱615年東海の乱(楚王・明政を自称)
被反乱615年絳郡の乱
被反乱615年譙郡の乱(楚帝・昌達を僭称)
被反乱616年雁門・霊丘の乱
被反乱616年東海の乱(蒼山)
被反乱616年馮翊の乱
被反乱616年高涼の乱
被反乱616年恒山・高陽の乱
被反乱616年東海の乱
被反乱616年安定の乱
被反乱616年鄱陽の乱(元興王・始興)
被反乱616年鄱陽の乱(楚帝・太平)
被反乱617年斉郡の乱
被反乱617年渤海の乱(長楽王・丁丑)
被反乱617年東平の乱
被反乱617年弘化の乱
被反乱617年朔方の乱(大丞相を自称)
被反乱617年上谷の乱(王子英)
被反乱617年馬邑の乱(定楊可汗を自称)
被反乱617年瓦崗の乱(興洛倉)
被反乱617年廬江の乱
被反乱617年廬江の乱(李通徳)
被反乱617年隴右の乱(西秦覇王・秦興を自称)
被反乱617年汝陰の乱
被反乱617年太原起義
被反乱617年河西の乱(涼王・安楽を自称)
被反乱617年太原の乱(楊世洛)
被反乱617年羅県の乱(梁王を自称)
被反乱618年4月11日江都の変

隋の歴代皇帝

5名の一覧

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