
隋第2代統一王朝
煬帝楊広
在位 604年8月21日〜618年4月11日(13年236日)
煬帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 隋書 帝紀五(恭帝紀)/北史 巻十二/資治通鑑 巻一八五(隋紀七)
- 即位経路
- 隋書 帝紀三(煬帝上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
運河を開いて高句麗に大軍を送り、江都の宮中で近衛の兵に殺された隋の皇帝である。
即位まで
文帝の第二子で、母は独孤皇后である。581年に晋王に立てられた。600年に兄の皇太子楊勇が庶人に落とされ、代わって皇太子となった。煬帝紀の末尾は、跡継ぎの順に当たらない身で兄の座を奪おうと謀って母に取り入り、楊素らが煽って廃立が成ったと書く。604年に文帝が仁寿宮で没し、煬帝が即位した。隋書の本紀は、文帝の死に煬帝が手を下したとは書かない。隋書の宣華夫人の伝は、病床の文帝が太子の無礼を聞いて怒り楊勇を呼ぼうとしたが、太子が張衡を寝殿に入れて人を退け、まもなく崩御が伝えられたと書く。資治通鑑はこれに内外で異論が多かったと書き添え、考異は張衡が毒を進めた、あるいは文帝を打ったとする他書の説を挙げたうえで隋書に従っている。
治世と最期
605年に洛陽に東京を造らせ、百余万人を動員して通済渠を開き、608年には永済渠を涿郡まで通した。第一次の高句麗遠征は号して200万の大軍だったが、薩水で宇文述らの九軍が敗れ、逃げ帰った将兵は2千余騎だった。617年、唐公が長安に入り、煬帝を遠く太上皇に立てて代王侑を帝とした。618年、宇文化及・司馬徳戡らが近衛の驍果を率いて宮中に押し入り、煬帝は殺された。本紀は手段も手を下した者も書かない。宇文化及伝は令狐行達に殺させたとし、資治通鑑は、煬帝が毒酒を求めて許されず、自ら練り絹の巾を解いて渡し、絞め殺されたと書く。資治通鑑の考異によれば、手を下した者を別の名で伝える書もある。
在位中の出来事(79件)
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隋の歴代皇帝
5名の一覧- 第1代文帝581–604年諸説あり
- 第2代煬帝604–618年暗殺
- 第3代恭帝侑617–618年不詳
- 恭帝侗618–619年暗殺
- 秦王楊浩618年暗殺
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