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隋(ずい)統一王朝対立・僭称の皇帝

秦(しん)王楊浩(おうようこう)

在位 618年4月11日〜618年10月23日(195日)

姓楊(よう)諱浩(こう)

秦王楊浩の人物データ

生年
不詳
在位
  • 618年4月11日〜618年10月23日
在位 195日長さは365名中314位
没年
618年10月23日
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立対立・僭称の皇帝
先代
  • 煬帝隋秦王楊浩は煬帝の甥
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
隋書 巻四十五 列伝第十(文四子)/隋書 巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)
即位経路
隋書 巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

煬帝(ようだい)を殺した宇文化及(うぶんかきゅう)に隋(ずい)の帝として立てられ、同じ年のうちに宇文化及(うぶんかきゅう)に毒殺された隋(ずい)の宗室(そうしつ)である。

即位まで

秦孝王(しんこうおう)楊俊(ようしゅん)の子で、楊俊(ようしゅん)は文帝(ぶんてい)の第三子、煬帝(ようだい)の弟にあたる。煬帝(ようだい)の即位後に秦王(しんおう)として父の跡を継いだが、楊(よう)玄感(げんかん)の乱を討ちに向かう宇文述(うぶんじゅつ)と行き来したことを咎(とが)められ、官を免じられた。618年、宇文化及(うぶんかきゅう)が江都(こうと)宮で煬帝(ようだい)を殺し、隋(ずい)の宗室(そうしつ)や外戚(がいせき)を殺すなかで、楊浩(ようこう)だけが残された。資治通鑑(しじつがん)によれば、楊浩(ようこう)は以前から宇文(うぶん)智及(ちきゅう)と行き来があったので、宇文(うぶん)智及(ちきゅう)が計らって助けた。宇文化及(うぶんかきゅう)は楊浩(ようこう)を帝に立て、自らは大丞相(だいじょうしょう)と称した。

治世と最期

資治通鑑(しじつがん)によれば、楊浩(ようこう)は蕭皇后(しょうこうごう)の令という形で立てられ、別宮(べつぐう)に住まわされて詔に署名するだけで、兵に見張られていた。北へ向かう途中では尚書省(しょうしょしょう)に預けられ、十余人の衛士に守られた。隋書(ずいしょ)の宇文化及(うぶんかきゅう)伝によれば、兵が離れて敗北を悟った宇文化及(うぶんかきゅう)は、人はいずれ死ぬ、一日でも帝にならずにおれようかと嘆き、楊浩(ようこう)を毒殺して魏県(ぎけん)で帝を称し、国号を許とした。毒殺は資治通鑑(しじつがん)と旧唐書(くとうじょ)も記すが、隋書(ずいしょ)と北史(ほくし)の楊浩(ようこう)の伝は害したとだけ書き、新唐書(しんとうじょ)は殺したとだけ書く。隋書(ずいしょ)と北史(ほくし)の伝は生年も年齢も記さない。

隋の歴代皇帝

5名の一覧

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