本文へスキップ

隋(ずい)第3代統一王朝

恭帝侑(きょうていゆう)楊侑(ようゆう)

在位 617年12月18日〜618年6月12日(176日)

姓楊(よう)諱侑(ゆう)諡号恭帝(きょうてい)

恭帝侑の人物データ

生年
不詳
在位
  • 617年12月18日〜618年6月12日
在位 176日13歳で即位(数え年)・長さは365名中322位
没年
619年15歳(数え年)267名中長寿順253位タイ
死因
不詳365名中33名
即位経路
擁立
先代
  • 煬帝隋恭帝侑は煬帝の孫
次代
  • 高祖唐高祖は恭帝侑の外戚

出典(死因・即位経路)

死因
隋書 帝紀五(恭帝紀)/北史 巻十二/舊唐書 巻一(高祖紀)/新唐書 巻一(高祖紀)/資治通鑑 巻一八七(唐紀三)
即位経路
隋書 帝紀五(恭帝紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

楊侑(ようゆう)は隋(ずい)の煬帝(ようだい)の孫で、617年に長安(ちょうあん)を落とした李淵(りえん)に擁立されて位に即いた。実権は唐王(とうおう)となった李淵(りえん)にあり、618年に位を唐に譲って酅国公(けいこくこう)とされ、翌619年に世を去った。

即位まで

楊侑(ようゆう)は元徳太子(げんとくたいし)の子で、母を韋妃(いひ)とし、607年に陳王(ちんおう)に立てられ、のち代王(だいおう)に移った。煬帝(ようだい)が遼東(りょうとう)に親征(しんせい)したときは京師の留守を総べ、のちに京師に鎮した。617年、李淵(りえん)が長安(ちょうあん)に迫ると、京師の留守の衛文昇(ぶんしょう)・陰世師(せいし)らは楊侑(ようゆう)を擁して拒んだ。資治通鑑(しじつがん)によれば、長安(ちょうあん)が陥ちたとき東宮(とうぐう)の楊侑(ようゆう)の側には侍読(じどく)の姚(よう)思廉(しれん)だけが残り、李淵(りえん)は楊侑(ようゆう)を迎えて大興殿(たいこうでん)の後ろに移した。李淵(りえん)らは煬帝(ようだい)を太上皇(たいじょうこう)に尊び、楊侑(ようゆう)は皇帝の位に即いて義寧(ぎねい)と改元(かいげん)し、大赦した。即位した殿を隋書(ずいしょ)は大興殿(たいこうでん)、資治通鑑(しじつがん)は天興殿(てんこうでん)とし、旧唐書(くとうじょ)は日を一日遅く置く。

治世と最期

即位の二日後、楊侑(ようゆう)は李淵(りえん)を大丞相(だいじょうしょう)とし唐王(とうおう)に進め、さらに二日後、軍国の機務(きむ)はすべて丞相(じょうしょう)府に帰すと詔した。618年、宇文化及(うぶんかきゅう)が江都(こうと)で煬帝(ようだい)を殺した。同じ年、楊侑(ようゆう)は李淵(りえん)に九錫(きゅうしゃく)の礼を与え、ついで天命が唐王(とうおう)に移ったとして旧邸に退くと詔した。この禅位(ぜんい)の詔を、大唐創業起居注(だいとうそうぎょうききょちゅう)は資治通鑑(しじつがん)の採る実録(じつろく)よりひと月早く置く。隋書(ずいしょ)は禅位(ぜんい)と同じ日に酅国公(けいこくこう)とされたとし、旧唐書(くとうじょ)は封爵(ほうしゃく)を唐の高祖(こうそ)の即位後に置く。619年、楊侑(ようゆう)は世を去り、隋書(ずいしょ)と旧唐書(くとうじょ)はその時期を新唐書(しんとうじょ)と資治通鑑(しじつがん)より三か月早く記す。隋書(ずいしょ)・旧唐書(くとうじょ)・新唐書(しんとうじょ)・資治通鑑(しじつがん)のいずれも崩じた、薨(こう)じたとだけ書き、殺害の記述は無い。後継ぎが無く、族子(ぞくし)の楊(よう)行基(こうき)に家を継がせたと資治通鑑(しじつがん)は記す。

在位中の出来事(4件)

改元617年12月元号を「義寧」とする
大赦617年12月
被反乱617年12月31日張掖の挙兵
被反乱618年1月30日廬江郡陥落

隋の歴代皇帝

5名の一覧

即位経路が「擁立」の97名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。