
唐第9代統一王朝
玄宗李隆基
在位 712年9月8日〜756年8月12日(43年349日)
姓李諱隆基
玄宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻九(玄宗紀下)
- 即位経路
- 新唐書 巻五(睿宗紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
開元年間に長く国を治めたのち、安史の乱で蜀へ逃れ、途中の馬嵬で楊貴妃に死を賜った皇帝である。新唐書の賛は、開元の際にはほとんど太平に至ったが、贅沢に心が動き、愛するものに溺れて国を失ったと評する。
即位まで
睿宗の第3子で、母は昭成皇后竇氏である。710年に中宗が急死して韋后が政治を執ると、太平公主と謀って兵を挙げ、韋后は乱兵に殺された。中宗の死を、旧唐書は玄宗紀では急死とだけ書くが中宗紀では安楽公主が韋后と謀って毒を進めたとし、新唐書の本紀は韋后が殺したと書く。712年、天文に帝の座の災いが現れたという言を受けて睿宗が位を譲り、即位した。翌年、太平公主と結んだ竇懐貞らが乱を謀っていると察して先に誅した。
治世と最期
755年に安禄山が楊国忠を討つと称して幽州から南下した。翌年に潼関が破れると蜀へ向かい、馬嵬の駅で兵が進まなくなった。楊国忠らが殺されても兵が収まらず、玄宗は高力士に命じて楊貴妃に自尽を命じた。資治通鑑と旧唐書の后妃伝は、陳玄礼がこの前に皇太子へ知らせていたと書くが、両唐書の本紀には無い。馬嵬を発つとき民が道をふさいで皇太子を留めるよう願い、太子は残った。蜀郡に着いたのち、霊武からの使者で初めて皇太子の即位を知り、太上皇となった。長安に戻って興慶宮に住んだが、760年に李輔国によって西内へ移され、高力士らも遠ざけられた。資治通鑑によれば、上皇は鬱々として肉を断ち、しだいに病んだ。762年に神龍殿で没したが、旧唐書の本紀はこれを前年の上元二年と記す。
在位中の出来事(34件)
改元712年9月12日元号を「先天」とする
立后712年9月15日先天元年八月丁未、皇太子妃王氏を皇后に冊立。
改元713年元号を「開元」とする
大赦713年先天二年七月、太平公主一派のクーデター未遂(七月三日発覚・鎮圧)の直後に発せられた大赦。
大赦713年
被反乱715年相州崔子岩の乱
大赦721年
被反乱721年兰池州叛胡の乱
被反乱722年安南梅叔鸾の乱
被反乱722年権梁山の乱(自称光帝)
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大赦723年
被反乱724年五溪覃行璋の乱
大赦725年
被反乱725年妖賊劉定高の乱
被反乱726年邕州獠梁大海の乱
被反乱728年泷州陳行範の乱
大赦729年
被反乱730年〜737年契丹可突干の乱
大赦732年
大赦735年
被反乱736年醴泉劉志誠の乱
皇太子廃立737年
大赦738年
大赦739年
改元742年元号を「天宝」とする
大赦745年
大赦747年
大赦748年
大赦749年
大赦751年
被反乱752年〜754年阿布思の叛乱
大赦754年
被反乱755年〜756年安史の乱(玄宗期)
大赦756年8月31日
唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑
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