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明宗の肖像

後唐(こうとう)(五代十国(ごだいじっこく))第2代分裂期の王朝

明宗(めいそう)李嗣源(りしげん)

在位 926年6月3日〜933年12月15日(7年197日)

姓李(り)諱嗣源(しげん)幼名邈佶烈(ばくきつれつ)

明宗の人物データ

生年
867年10月10日
在位
  • 926年6月3日〜933年12月15日
在位 7年197日長さは365名中149位
没年
933年12月15日67歳(数え年)267名中長寿順21位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
次代
  • 閔帝後唐閔帝は明宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
旧五代史 巻四十四(唐書・明宗紀十)
即位経路
旧五代史 巻三十四(荘宗紀八)/巻三十五(明宗紀一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

李克用(りこくよう)の養子として育ち、荘宗(そうそう)の治世の末に兵変に担がれ、荘宗(そうそう)の死後に後唐(こうとう)の位に即いた。新五代史(しんごだいし)は、明宗(めいそう)の時代は戦がほぼ止んで豊作が続いたと評する一方、罪の無い臣下をしばしば殺したとも書く。

即位まで

旧五代史(きゅうごだいし)は代北(だいほく)の人とし、代々李克用(りこくよう)に仕えて宗室(そうしつ)の籍に入れられたと書く。新五代史(しんごだいし)と資治通鑑(しじつがん)によれば、もとは姓の無い胡人(こじん)で、幼名(ようめい)を邈佶烈(ばくきつれつ)といい、李克用(りこくよう)が養子として嗣源(しげん)の名を与えた。926年、趙(ちょう)在礼(ざいれい)が魏州(ぎしゅう)で叛(そむ)くと、討伐に手間取ったため、李嗣源(りしげん)が兵を率いて河を渡った。鄴都(ぎょうと)の城外で兵が乱を起こし、荘宗(そうそう)は河南(かなん)の帝、李嗣源(りしげん)は河北(かほく)の帝になるよう求められ、泣いて拒んだが、刃を突き付けられて城に入れられた。鄴都(ぎょうと)に着いた日と兵変の日を、新五代史(しんごだいし)はその月に無い干支で記す。やがて荘宗(そうそう)が死んだと聞いて慟哭(どうこく)し、洛陽(らくよう)に入った。国号を改めよという声もあったが、弟が兄を継ぐ形で柩(ひつぎ)の前で即位することに決まった。

治世と最期

資治通鑑(しじつがん)によれば、明宗(めいそう)は毎夜香を焚き、自分は胡人(こじん)で乱のために推されただけだから、早く聖人を生んで民の主にしてほしいと天に祈った。933年、子の李(り)従栄(じゅうえい)を皇太子に立てよという上書があったが、李(り)従栄(じゅうえい)はかえって兵権を奪われると考え、天下兵馬大元帥の位を加えられた。その年、明宗(めいそう)が重態に陥ると、李(り)従栄(じゅうえい)は父が死んだと思い込み、兵を率いて宮中に入ろうとしたが、禁軍(きんぐん)に防がれて敗れ、殺された。李(り)従栄(じゅうえい)の死を新五代史(しんごだいし)の本紀(ほんぎ)は誅(ちゅう)されたと書き、家人伝(かじんでん)と資治通鑑(しじつがん)は皇城使(こうじょうし)の安従益(じゅうえき)が殺したとする。明宗(めいそう)はこれを聞いて悲しみ驚き、病が重くなって、まもなく雍和殿(ようわでん)で崩じた。子の李従厚(りじゅうこう)が鄴都(ぎょうと)から着き、遺制により柩(ひつぎ)の前で即位した。

在位中の出来事(24件)

改元926年6月11日元号を「天成」とする
大赦926年6月11日
被反乱926年7月麟州指揮使張延寵の乱
被反乱926年8月汴州控鶴指揮使張談・趙虔の乱
被反乱926年8月滑州軍士の乱
被反乱926年9月涿州刺史劉殷肇の乱
被反乱926年10月登州刺史王公儼の乱
被反乱927年荊南(南平)高季興の乱
被反乱927年盧台戍軍の乱
親征928年汴州節度使硃守殷(反乱鎮圧のための親征)
残り14件を表示
被反乱928年〜929年定州(義武軍)王都の乱
被反乱928年汴州節度使硃守殷の乱
被反乱929年〜930年慶州刺史竇廷琬の乱
被反乱929年安州駐屯軍の乱
改元930年元号を「長興」とする
大赦930年
立后930年长兴元年五月丁丑、淑妃曹氏を皇后に正式册立。
被反乱930年河中衙内指揮使楊彦温の乱
被反乱931年〜932年東川節度使董璋の乱
被反乱932年党項諸族の叛乱
被反乱932年霊武都指揮使許審環の乱
被反乱933年4月〜933年8月夏州留後李彝超の朝命拒否
大赦933年8月27日
被反乱933年11月秦王李従栄の兵変

後唐の歴代皇帝

4名の一覧

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