
後唐(五代十国)第2代分裂期の王朝
明宗李嗣源
在位 926年6月3日〜933年12月15日(7年197日)
明宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧五代史 巻四十四(唐書・明宗紀十)
- 即位経路
- 旧五代史 巻三十四(荘宗紀八)/巻三十五(明宗紀一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李克用の養子として育ち、荘宗の治世の末に兵変に担がれ、荘宗の死後に後唐の位に即いた。新五代史は、明宗の時代は戦がほぼ止んで豊作が続いたと評する一方、罪の無い臣下をしばしば殺したとも書く。
即位まで
旧五代史は代北の人とし、代々李克用に仕えて宗室の籍に入れられたと書く。新五代史と資治通鑑によれば、もとは姓の無い胡人で、幼名を邈佶烈といい、李克用が養子として嗣源の名を与えた。926年、趙在礼が魏州で叛くと、討伐に手間取ったため、李嗣源が兵を率いて河を渡った。鄴都の城外で兵が乱を起こし、荘宗は河南の帝、李嗣源は河北の帝になるよう求められ、泣いて拒んだが、刃を突き付けられて城に入れられた。鄴都に着いた日と兵変の日を、新五代史はその月に無い干支で記す。やがて荘宗が死んだと聞いて慟哭し、洛陽に入った。国号を改めよという声もあったが、弟が兄を継ぐ形で柩の前で即位することに決まった。
治世と最期
資治通鑑によれば、明宗は毎夜香を焚き、自分は胡人で乱のために推されただけだから、早く聖人を生んで民の主にしてほしいと天に祈った。933年、子の李従栄を皇太子に立てよという上書があったが、李従栄はかえって兵権を奪われると考え、天下兵馬大元帥の位を加えられた。その年、明宗が重態に陥ると、李従栄は父が死んだと思い込み、兵を率いて宮中に入ろうとしたが、禁軍に防がれて敗れ、殺された。李従栄の死を新五代史の本紀は誅されたと書き、家人伝と資治通鑑は皇城使の安従益が殺したとする。明宗はこれを聞いて悲しみ驚き、病が重くなって、まもなく雍和殿で崩じた。子の李従厚が鄴都から着き、遺制により柩の前で即位した。
在位中の出来事(24件)
残り14件を表示
後唐の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代荘宗923–926年暗殺
- 第2代明宗926–933年病死
- 第3代閔帝933–934年暗殺
- 第4代末帝934–937年自尽