
後唐(五代十国)第1代分裂期の王朝
荘宗李存勗
在位 923年5月13日〜926年5月15日(3年3日)
荘宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧五代史 巻三十四(唐書・荘宗紀八)
- 即位経路
- 旧五代史 巻三十(唐書・荘宗紀四)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李存勖は晋王李克用の長子で、父の跡を継いで梁と戦い、923年に魏州で皇帝に即位した後唐の初代皇帝である。926年、洛陽で兵の乱に遭い、流れ矢に当たって死んだ。
即位まで
李存勖は武皇李克用の長子で、父が没すると24歳で晋陽にて王位を嗣いだ。旧五代史は、魏州に築いた壇に登って皇帝に即位し、天祐二十年を同光元年と改めて大赦したと記す。旧五代史の荘宗紀は、即位の条に新しい国号を立てたことを記さない。新五代史は、国号を唐と明記する。923年、中都で梁の王彦章らを捕らえて汴州に入ると、梁の末帝が皇甫麟に殺されており、その首が献じられた。
治世と最期
925年、荘宗は子の魏王継岌と枢密使の郭崇韜に蜀を討たせ、七十五日で蜀は平定された。926年、蜀で継岌が郭崇韜を殺してその一族を滅ぼした。新五代史は、劉皇后が宦者の讒言を聞いて継岌に殺させたと記す。同じ年、貝州に駐屯していた兵士の皇甫暉らが反乱を起こして趙在礼を首領に擁し、鄴都を攻め落とした。荘宗は元行欽に騎兵三千を授けて招撫に向かわせた。続けて派遣した李嗣源の軍も鄴都城下で乱れ、乱兵は李嗣源を皇帝に擁立しようとした。従馬直指揮使の郭従謙が兵を率いて興教門で乱を起こし、荘宗は諸王・近衛を率いて防いだが、流れ矢に当たって絳霄殿の庇の下で崩じた。崩じると左右は散り、五坊の人の善友が楽器を遺体の上に積んで火を放った。のち明宗が洛陽に入ったときには、焼け残りの骨があるだけだった。崩御の朔を旧五代史は丁丑朔、資治通鑑は丁亥朔と記して干支が異なり、丁亥朔なら没日は表の日にあたる。旧五代史の史臣は、これを得るのは大いに労し、失うのはどうして速やかなのかと述べ、外は伶人が政を乱し、内は牝鶏が晨を司るためと評した。
在位中の出来事(14件)
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後唐の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代荘宗923–926年暗殺
- 第2代明宗926–933年病死
- 第3代閔帝933–934年暗殺
- 第4代末帝934–937年自尽
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