
後梁・五代十国第1代分裂期の王朝
太祖朱全忠
在位 907年6月1日〜912年7月18日(5年49日)
太祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧五代史 巻七(梁書・太祖紀七)
- 即位経路
- 旧五代史 巻三(梁書・太祖紀三)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
朱全忠は宋州砀山の人で、黄巣の軍から唐に寝返り、907年に唐の禅譲を受けて後梁を立てた。912年、子の朱友珪が寝殿に押し入り、その側近に刺されて死んだ。
即位まで
旧五代史は、朱全忠は姓朱、諱は晃で、宋州砀山の人、父朱誠の第三子と記す。黄巣の乱で兄の朱存と黄巣の軍に入り、882年に黄巣の監軍を斬って河中の王重栄に降り、僖宗から全忠の名を賜った。904年、昭宗が大内で弑された。旧五代史は遇弑とだけ書き下手人を記さず、新五代史は朱全忠が朱友恭らを遣わして弑させたと記す。907年、唐の天子が朱全忠に禅代の意を伝え、御札で宰臣らに梁朝を奉迎させた。旧五代史は朱全忠が戊辰に即位したとするが、旧五代史が引く資治通鑑と新五代史は甲子とし、新五代史は戊辰を大赦と改元の日とする。即位の制は、唐の天祐四年を改めて開平元年とし、国号を大梁とした。
治世と最期
新五代史は、唐主を済陰王に封じ、908年にこれを弑したと記す。908年、梁軍は潞州を二年近く囲んだが、李存勖が救援に来て、潞州の戦いで敗れた。909年、朱全忠の車駕は西京の洛陽に至った。同年、同州の劉知俊が反し、朱全忠は官爵を削って征討を命じた。911年、王景仁が晋と柏郷で戦って敗れた。912年、病が重くなった朱全忠は近臣に、太原の余孽がこれほど盛んになるとは思わなかった、自分が死ねば諸子はその敵ではない、と語った。朱全忠が郢王友珪を莱州刺史に出そうとすると、友珪は恐れて韓勍と謀り、韓勍が牙兵五百を率いて友珪とともに禁中に入った。旧五代史が引く資治通鑑は、友珪の僕夫の馮廷諤が朱全忠の腹を刺して刃が背に出たと記し、新五代史の家人伝は友珪の親吏の馮廷諤が剣で腹を貫いたと記す。死の書き方は書によって異なる。新五代史の本紀は友珪の反と崩を並べ、旧五代史の末帝紀は友珪の弑逆と明記する。
在位中の出来事(13件)
残り3件を表示
後梁・五代十国の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代太祖907–912年暗殺
- 朱友珪912–913年自尽
- 第2代末帝913–923年自尽
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