西遼(遼・西夏・金)第5代分裂期の王朝
天禧皇帝耶律直魯古
在位 1177年〜1211年(34年8日)
姓耶律諱直魯古
天禧皇帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 新元史 列伝(畏兀児・巴而術阿而忒的斤亦都護伝)
- 即位経路
- 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
直魯古は西遼の末代の君主で、仁宗の次子として即位し、天禧と改元した。乃蛮王の屈出律に位を奪われた。
即位まで
遼史は、大石の没後、子の夷列が幼かったので皇后が国を治め、のち夷列が即位して在位十三年で没し、廟号は仁宗になったと記す。仁宗の死後、子が幼かったので、遺詔で仁宗の妹の普速完が称制し、承天太后と号した。普速完は駙馬の父の斡里剌に兵で宮を囲まれ、射殺された。遼史は直魯古を仁宗の次子と記すが、即位の年は書かず、先代までの在位年数を順に並べるだけである。
治世と最期
遼史は、直魯古の治世の事績について、天禧改元のほかには何も記さない。遼史は、屈出律が秋の狩りで伏兵八千により直魯古を捕らえ、位を奪ったと記す。屈出律は遼の衣冠をまとい、直魯古を太上皇、皇后を皇太后に尊び、朝夕に起居を問うて終わりまで仕えた。新元史は経緯を異にし、屈出律は直魯古の女を妻に迎えて信任を得たのち、東西から挟撃して直魯古を生け捕りにしたと記す。遼史には直魯古の没年も死因も書かれていない。新元史は、位を奪われた二年後に憂いで卒したと記し、表の没年と死因はこれによる。元史の太祖紀は屈出律が契丹へ奔ったことを記すが、直魯古の名も位を奪った事も書かない。
在位中の出来事(2件)
改元1177年元号を「天禧」とする
被反乱1211年屈出律(クチュルク)のクーデター
西遼の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代徳宗天祐皇帝1132–1143年不詳
- 第3代仁宗正徳皇帝1150–1163年不詳
- 第5代天禧皇帝1177–1211年病死