
南宋第7代分裂期の王朝
度宗趙禥
在位 1264年11月16日〜1274年8月12日(9年271日)
姓趙諱禥
度宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀 巻四十六(度宗)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻四十六(度宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
理宗の甥で養子として跡を継ぎ、政を賈似道に任せきりにしたまま、襄陽を元に失った南宋の皇帝である。宋史の贊は、大きな失徳は無いが権奸に政を任せて国勢がいよいよ衰えたと評する。
即位まで
太祖の十一世孫で、父は理宗の同母弟の嗣栄王與芮である。1240年に紹興府の栄王の邸で生まれた。子の無い理宗は彼に位を託すことを決め、1253年に皇子とし、1260年に皇太子に立てた。立太子に際し、吳潛は忠王には陛下の福が無いと密奏して理宗の怒りを買った。1264年に理宗が没すると、遺詔を受けて即位した。
治世と最期
1267年、賈似道を太師・平章軍国重事とし、三日に一度だけ朝に出て都堂で政務を執らせた。自分を擁立した賈似道には朝ごとに答拝し、名を呼ばず師臣と称した。賈似道が辞去を求めると泣いて引き留め、のちには入朝しても拝礼させず、退出のときは席を立って見送った。1268年に元軍が白河城を築き、襄陽・樊城の包囲が始まった。1273年に樊城が落ち、呂文煥が襄陽を挙げて元に降った。賈似道がその報告を奏上したのは翌月になってからで、度宗は六年守った襄陽が一朝にして失われたことを痛恨とする詔を出した。1274年に福寧殿で没し、翌日には内医の蔡幼習が弾劾されて遠方へ移された。宋史の本紀は死因を書かず、宋季三朝政要は即位後に酒色に耽ったと記すとともに、その年の殿試には病のため臨めないまま没したと書く。
在位中の出来事(5件)
大赦1264年11月20日度宗即位直後(理宗崩御の4日後)の大赦。
改元1264年12月20日元号を「咸淳」とする
大赦1267年南郊祭祀に伴う大赦。
立后1267年
大赦1269年明堂親祀に伴う大赦。