
北宋第8代統一王朝
徽宗趙佶
在位 1100年2月23日〜1126年1月18日(25年336日)
姓趙諱佶
徽宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 本紀四(熙宗)
- 即位経路
- 宋史 本紀十九(徽宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
兄の哲宗の跡を継いで蔡京を用い、花石綱で民を苦しめ、金の侵攻を前に位を譲ったのち、北へ連れ去られて五国城で没した北宋の皇帝である。
即位まで
神宗の第十一子で、母は欽慈皇后陳氏である。1100年に哲宗が子の無いまま没すると、宰相の章惇は哲宗と同母の簡王を推したが、向太后は順序から端王を立てるべきだと退けた。太后が、先帝は端王に福寿があり仁孝だと言っていたと述べると章惇は黙り、端王が召されて即位した。
治世と最期
1102年に蔡京を宰相とした。朱勔伝によれば、徽宗が花石を好んだのを受けて蔡京が朱勔に浙中の珍品を献じさせ、蘇州に応奉局が置かれて、運ぶ船団は花石綱と呼ばれた。1117年には道籙院に上章させて、自らを教主道君皇帝と称させた。1120年に青渓で方臘が兵を挙げ、方臘伝は、花石の害に苦しむ人々に乗じた挙兵だったと書く。方臘は翌年に捕らえられて誅された。西暦では1126年の初め、金軍が二手に分かれて攻め込んだとの報が届くと、徽宗は花石綱を罷め、自らを責める詔を下して皇太子に位を譲った。1127年に金軍に北へ連れ去られた。金からは昏徳公に封じられ、1135年に五国城で没した。死の日は、宋史の本紀と金史の熙宗紀とで2日ずれるが、後代の続資治通鑑は、金史の日を金主が死を聞いた日とする。本紀の賛は、正しい士を退けて姦臣を近づけたことを国を失った理由に挙げ、玩物喪志の最たる者と評する。
在位中の出来事(41件)
大赦1100年2月即位に伴う特別な恩赦。
立后1100年3月順国夫人王氏(後の顕恭皇后)を皇后に立てる。
大赦1100年5月
改元1100年12月元号を「建中靖国」とする
改元1101年元号を「崇寧」とする
大赦1101年改元決定と同日の恩赦。
大赦1103年
大赦1104年圜丘祭祀に伴う恩赦。
大赦1105年
改元1106年元号を「大観」とする
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大赦1106年星変(彗星出現)を受けた恩赦。
大赦1107年
大赦1107年大饗明堂に伴う恩赦。
大赦1108年元圭受納の儀に伴う恩赦。
改元1110年元号を「政和」とする
大赦1110年
大赦1110年改元決定と同日の恩赦。
立后1110年貴妃鄭氏を皇后に立てる。
大赦1111年病気平癒による恩赦。
大赦1112年冬至の元圭受納儀に伴う恩赦。
大赦1113年圜丘祭祀に伴う大赦。
大赦1115年皇太子冊立に伴う恩赦。
被反乱1115年〜1116年瀘南晏州夷の反乱(卜漏)
大赦1116年上帝徽号宝冊奉上に伴う恩赦。
大赦1116年圜丘祭祀に伴う恩赦。
大赦1117年大饗明堂に伴う恩赦。
改元1118年元号を「重和」とする
大赦1118年
大赦1118年改元決定と同日の大赦。
改元1119年元号を「宣和」とする
大赦1119年圜丘祭祀に伴う恩赦。
被反乱1120年〜1121年方臘の乱
大赦1121年
被反乱1121年宋江の乱
大赦1122年圜丘祭祀に伴う恩赦。
大赦1124年燕雲十六州回復を記念する恩赦。
大赦1125年圜丘祭祀に伴う恩赦。
被反乱1125年河東義勝軍の叛乱
被反乱日付不詳淮西の盗乱
被反乱日付不詳張萬仙の群盗
被反乱日付不詳賈進の群盗(山東寇)
北宋の歴代皇帝
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