
北宋第3代統一王朝
真宗趙恒
在位 997年5月8日〜1022年3月23日(24年325日)
真宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀八(真宗三)
- 即位経路
- 宋史 本紀六(真宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
太宗の跡を継いだ北宋の皇帝で、遼と澶淵の盟を結び、のちに天書が降ったとして泰山で封禅を行った。本紀の賛は、澶淵の盟ののちに封禅・祥瑞・天書が続いたことを、一国の君臣が狂を病んだかのようだと評する。
即位まで
太宗の第三子で、母は元徳皇后李氏であり、968年に開封府の邸で生まれた。997年に太宗が没すると、遺制を奉じて柩の前で即位した。宋史の呂端伝によれば、太宗の臨終の際に宦官の王継恩らが兄の元佐を立てようと謀り、李皇后も年長の子を立てるべきだと言ったが、呂端が王継恩を閣内に閉じ込めて太子を立てた。
治世と最期
1004年に遼軍が南下すると、王欽若は金陵へ、陳堯叟は成都への行幸を請うたが、寇準伝によれば寇準が親征を説いて澶州への行幸を請うた。本紀によれば、1005年の初めに遼の大帥の撻覧が伏弩に当たって死んだのち、真宗は澶州で黄河を渡って北の砦に入った。まもなく遼の使者が誓書をもたらし、真宗は都へ戻ってその誓書を河北・河東の諸州に頒布した。寇準伝によれば、真宗は使者の曹利用に百万以下なら許してよいと言ったが、寇準が三十万を超えれば斬ると告げ、曹利用は三十万で約を結んだ。遼史の聖宗紀は、宋が和を請い、遼の太后を叔母とし、毎年銀十万両と絹二十万匹を納めると願ったので許したと記す。のちに王欽若は、澶淵の盟は城下の盟で、真宗は寇準の博打の最後の賭け金にされたと説いた。続資治通鑑長編は、これで沈んでいた真宗に王欽若が封禅を勧め、天瑞は人の手で作ってもよいと説いたのが天書と封禅の始まりだとする。1008年、左承天門に掛かった黄帛を開いて天書と称し、大赦して大中祥符と改元し、同じ年に泰山で天を祀った。王欽若伝は、泰山に天書を賜うという夢を真宗自身が見て王欽若にひそかに告げ、のちに王欽若が泰山での天書の再降を報じたと記す。1022年に病が重くなり、皇后に皇太后として軍国の事を処分させる遺詔を残して、延慶殿で没した。