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真宗の肖像

北宋(ほくそう)第3代統一王朝

真宗(しんそう)趙(ちょう)恒(こう)

在位 997年5月8日〜1022年3月23日(24年325日)

姓趙(ちょう)諱恒(こう)

真宗の人物データ

生年
968年12月23日
在位
  • 997年5月8日〜1022年3月23日
在位 24年325日30歳で即位(数え年)・長さは365名中37位
没年
1022年3月23日55歳(数え年)267名中長寿順56位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 太宗北宋真宗は太宗の子
次代
  • 仁宗北宋仁宗は真宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
宋史 本紀八(真宗三)
即位経路
宋史 本紀六(真宗一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

太宗(たいそう)の跡を継いだ北宋(ほくそう)の皇帝で、遼(りょう)と澶淵(せんえん)の盟を結び、のちに天書(てんしょ)が降ったとして泰山で封禅(ほうぜん)を行った。本紀(ほんぎ)の賛(さん)は、澶淵(せんえん)の盟ののちに封禅(ほうぜん)・祥瑞(しょうずい)・天書(てんしょ)が続いたことを、一国の君臣が狂を病んだかのようだと評する。

即位まで

太宗(たいそう)の第三子で、母は元徳皇后(げんとくこうごう)李氏(りし)であり、968年に開封府(かいほうふ)の邸で生まれた。997年に太宗(たいそう)が没すると、遺制を奉じて柩(ひつぎ)の前で即位した。宋史(そうし)の呂端(たん)伝によれば、太宗(たいそう)の臨終の際に宦官(かんがん)の王継恩(けいおん)らが兄の元佐(げんさ)を立てようと謀り、李(り)皇后(こうごう)も年長の子を立てるべきだと言ったが、呂端(たん)が王継恩(けいおん)を閣内に閉じ込めて太子を立てた。

治世と最期

1004年に遼(りょう)軍が南下すると、王欽若(きんじゃく)は金陵(きんりょう)へ、陳堯叟(ぎょうそう)は成都(せいと)への行幸(ぎょうこう)を請うたが、寇(こう)準伝によれば寇(こう)準が親征(しんせい)を説いて澶州(せんしゅう)への行幸(ぎょうこう)を請うた。本紀(ほんぎ)によれば、1005年の初めに遼(りょう)の大帥(たいすい)の撻覧(たつらん)が伏弩(ふくど)に当たって死んだのち、真宗(しんそう)は澶州(せんしゅう)で黄河(こうが)を渡って北の砦(とりで)に入った。まもなく遼(りょう)の使者が誓書をもたらし、真宗(しんそう)は都へ戻ってその誓書を河北(かほく)・河東(かとう)の諸州に頒布した。寇(こう)準伝によれば、真宗(しんそう)は使者の曹利用(りよう)に百万以下なら許してよいと言ったが、寇(こう)準が三十万を超えれば斬ると告げ、曹利用(りよう)は三十万で約を結んだ。遼史(りょうし)の聖宗(せいそう)紀(き)は、宋(そう)が和を請い、遼(りょう)の太后を叔母とし、毎年銀十万両と絹二十万匹を納めると願ったので許したと記す。のちに王欽若(きんじゃく)は、澶淵(せんえん)の盟は城下の盟で、真宗(しんそう)は寇(こう)準の博打の最後の賭け金にされたと説いた。続資治通鑑(しじつがん)長編(ちょうへん)は、これで沈んでいた真宗(しんそう)に王欽若(きんじゃく)が封禅(ほうぜん)を勧め、天瑞(てんずい)は人の手で作ってもよいと説いたのが天書(てんしょ)と封禅(ほうぜん)の始まりだとする。1008年、左承天門(さしょうてんもん)に掛かった黄帛(こうはく)を開いて天書(てんしょ)と称し、大赦して大中祥符(たいちゅうしょうふ)と改元(かいげん)し、同じ年に泰山で天を祀(まつ)った。王欽若(きんじゃく)伝は、泰山に天書(てんしょ)を賜うという夢を真宗(しんそう)自身が見て王欽若(きんじゃく)にひそかに告げ、のちに王欽若(きんじゃく)が泰山での天書(てんしょ)の再降を報じたと記す。1022年に病が重くなり、皇后に皇太后として軍国の事を処分させる遺詔(いしょう)を残して、延慶殿(えんけいでん)で没した。

在位中の出来事(28件)

立后997年6月至道3年(997)五月丁亥、『立秦國夫人郭氏為皇后』。
被反乱997年10月2日劉旴の乱(西川広武軍卒の反乱)
改元998年元号を「咸平」とする
大赦999年
親征1000年契丹(遼)
被反乱1000年王均の乱(益州軍変)
大赦1001年咸平4年(1001)十一月壬寅、圜丘にて天地を祀り『大赦』。
改元1004年元号を「景徳」とする
大赦1004年
大赦1005年
残り18件を表示
大赦1005年景徳2年(1005)十一月丁巳、圜丘にて天地を祀り『大赦』。
親征1005年契丹(遼)
被反乱1007年陳進の乱(宜州兵変)
改元1008年元号を「大中祥符」とする
大赦1008年
大赦1008年
大赦1011年
大赦1012年
立后1013年大中祥符5年(1012)十二月丁亥、『立德妃劉氏為皇后』。
大赦1014年大中祥符7年(1014)二月壬申、亳州太清宮への謁詣(恭謝天地)に伴い『大赦天下』。
改元1017年元号を「天禧」とする
大赦1017年
大赦1018年
大赦1019年天禧3年(1019)八月丁亥、『大赦天下』(普度道釋童行等を伴う)。
大赦1019年天禧3年(1019)十一月辛未、圜丘にて天地を祀り『大赦天下』。
被反乱1020年朱能の乱(永興軍の反乱)
改元1022年2月元号を「乾興」とする
大赦1022年3月乾興元年(1022)二月庚子、『大赦天下』。

北宋の歴代皇帝

9名の一覧

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