
北宋第4代統一王朝
仁宗趙禎
在位 1022年3月23日〜1063年4月30日(41年48日)
姓趙諱禎
仁宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀十二(仁宗四)
- 即位経路
- 宋史 本紀九(仁宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
幼くして即位し、劉太后の垂簾のもとで育った北宋の皇帝で、西夏の元昊と戦って和を結び、范仲淹らの改革を一時採り入れた。
即位まで
真宗の第六子で、生母は李宸妃だが、子の無い章献皇后劉氏が自分の子として育てた。1022年に真宗が没すると遺詔で即位し、章献皇后が皇太后として軍国の事を処分した。皇太后は承明殿に幄を設け、簾を垂れて輔臣に会った。
治世と最期
1033年に章献皇太后が没し、李宸妃を皇太后に追尊したとき、仁宗は初めて自分が宸妃の子だと知り、自ら政を執り始めた。1034年の初めに皇后の郭氏を廃し、門前で諫めた孔道輔と范仲淹を朝廷から出した。1039年の初めに元昊が背き、帝を称することを求めた。宋軍は1040年に延州で、1041年に好水川で、1042年に定川砦で相次いで敗れた。1042年には契丹が土地の割譲を求め、富弼を使者として交渉し、誓書が交わされた。本紀は増した歳幣の額を書かず、賛が一言触れるだけである。1044年、元昊に誓詔を賜って歳賜を定め、夏国主に封じた。范仲淹伝によれば、仁宗が二府に条対させると范仲淹は十事を上り、仁宗は府兵の法を除いてこれを採り、詔で頒下した。改革が急で恩典が薄くなり、僥倖を望む者が不便を言い立てて、誹謗と朋党の論が仁宗の耳に入った。1045年に范仲淹・富弼・杜衍が相次いで罷免され、本紀はその理由も新政の語も記さない。皇子は1037年・1041年・1043年に相次いで亡くなった。1062年、濮安懿王の子の宗実を皇子とし、曙の名を賜った。1063年に病み、福寧殿で没して、皇子が遺制で即位した。本紀は病名も症状も記さない。
在位中の出来事(54件)
大赦1022年3月24日即位に伴う大赦。
改元1023年元号を「天聖」とする
大赦1024年南郊(圜丘祀天地)に伴う大赦。
立后1024年
被反乱1025年環・原州屬羌の乱
大赦1027年南郊(圜丘祀天地)に伴う大赦。
大赦1029年
大赦1030年南郊(圜丘祀天地)に伴う大赦。
改元1032年元号を「明道」とする
大赦1032年大内火災後の大赦。
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大赦1032年修内完成・恭謝天地・謁太廟に伴う大赦(改元と同時)。
大赦1033年先農を祀り籍田を耕すに伴う大赦。
大赦1033年
改元1034年元号を「景祐」とする
大赦1034年星変(帝不予・星孛出現)による大赦。
立后1034年
大赦1035年南郊(圜丘祀天地)に伴う大赦。
被反乱1035年猺・獠の雷州・化州侵寇
被反乱1035年鎮寧州蠻の乱
改元1038年元号を「宝元」とする
大赦1038年南郊(圜丘祀天地)に伴う大赦(改元と同時)。
被反乱1038年〜1039年安化州蠻の乱(宜州・融州侵寇)
改元1040年元号を「康定」とする
改元1041年元号を「慶暦」とする
大赦1041年南郊(圜丘祀天地)に伴う大赦(改元と同時)。
被反乱1043年〜1044年桂陽洞蠻・徭賊の乱
被反乱1043年王倫の乱(虎翼卒・沂州)
被反乱1043年光化軍兵変
大赦1044年冬至・南郊(圜丘祀天地)に伴う大赦。
被反乱1044年〜1045年區希範の乱(宜州蠻)
被反乱1044年保州雲翼軍の乱
被反乱1044年淯井監夷人の三江砦侵寇
大赦1045年章献明粛皇后・章懿皇后神主を太廟に祔するに伴う大赦。
被反乱1046年〜1047年湖南徭賊(唐和ら)の乱
大赦1047年冬至・南郊(圜丘祀天地)に伴う大赦。
被反乱1047年〜1048年王則の乱(貝州)
被反乱1048年親從官顏秀の禁中謀変
改元1049年元号を「皇祐」とする
被反乱1049年〜1053年儂智高の乱
大赦1050年明堂大享(大飨天地于明堂)に伴う大赦。
大赦1053年南郊(圜丘祀天地)に伴う大赦。
改元1054年元号を「至和」とする
被反乱1055年蘇茂州蠻の邕州侵寇(1回目)
改元1056年元号を「嘉祐」とする
大赦1056年
大赦1056年恭謝天地於大慶殿に伴う大赦(改元と同時)。
被反乱1056年環州小遇族の乱
被反乱1056年〜1058年彭仕羲の乱(下溪州蠻)
被反乱1057年澧州羅城洞蠻の侵寇
被反乱1057年儂宗旦の乱(邕州火峒蠻)
被反乱1057年梓夔路三里村夷人の淯井監侵寇
大赦1059年太廟に大祫するに伴う大赦。
被反乱1061年蘇茂州蠻の邕州侵寇(2回目)
大赦1062年明堂大享(大飨明堂)に伴う大赦。